saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 生のアート The art of living (第四の質問) & (第五の質問)

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第四の質問

愛する和尚、

あなたの お話をいつも楽しく聞いています。
聞いた話の中でも 大好きなのは、先日 あなたが、私たちに あなたの話が聞こえるかどうか尋ねたところです。



私は、いつの日も、いつでも そう尋ねたいと思っている。
私の話が聞こえるかね ? と。
失礼だから 聞かないだけなのだ。

マイクが壊れたその日、私は勇気を奮って聞いた。
だが、 いいかい、あなたたちは嘘をついていたのだよ。
「私の話が聞こえるかね」と 言ったら、あなたたちは「いいえ」と言った。
嘘をついたね。
私の質問が 聞こえなかったら どうして答えられる ?

失礼だから、このときも 私は黙っていた。
黙っているしかなかった。



若い女性が助言を求めて、ムラ・ナスルディンのところへ行った。
彼女は ムラに、「私に嘘をつく人と結婚すべきでしょうか」と 尋ねた。
「すべきです。 永遠に未婚でいたくなければね」と ナスルディンは答えた。


弟子を持たないマスターでいようと 決心しない限り、私は 嘘つきであるあなたたちを 弟子として受け入れざるを得ない。
他にやりようがないからね。

あの時、あなたたちは紛れもなく嘘を言った。
聞こえていたのに、「いいえ」と すぐ返事をした。

あなたたちが「私の話が聞こえるかね」という私の質問が好きであるように、私も あなたたちの答えが大好きだ。


第四の質問 終わり・・・



第五の質問

愛する和尚、

あなたは、ハシディズムを 楽しく明るい共同体と呼びました。
しかし、ニューヨークにある 現代のそれは、堅苦しく、厳格で、独断的で、異教徒や 自分たち以外のユダヤ人をとても軽蔑しているようです。
どうして こんなことになってしまったのでしょうか。



それは常に起こる。
真理は、地上に長く留まることができない。

真理は現れ、消える。
機会があれば、あなたを 打ち、去っていく。
地上に 留めてはおけない。
地上は 偽りに満ち、人々は それに夢中になっている。
だから真理は、ここに長く留まることができない。
仏陀のような人が 地上を歩くたびに、ほんのしばらくだけ真理は歩く。
仏陀がいなくなれば 真理も消える。
足跡しか残らないが、あなたは それを崇め続ける。
足跡は仏陀ではないし、仏陀が口にした言葉も ただの言葉に過ぎない。
その言葉を 繰り返してみたところで、それは言葉でしかなく 意味を持たない。

言葉の背後にある意味は、仏陀その人であった。
あなたは まったく同じ言葉を繰り返せるが、意味は同じではない。
言葉の背後にいる人物が もはや同じではないからだ。

バアル・シェムが そこにいたとき、ハシディズムは 選りすぐりの共同体だった。
彼が地上を歩いたとき、ハシディズムは この世で最も素晴らしい共同体の 一つだった。
ハシディズムは 花を咲かせた。
マスターが、生きているマスターが必要だ。
生きているマスターがいるときのみ、あなたの 最奥の蕾は 開花する。

バアル・シェムが死んだあとには、伝統しか残らなかった ーー バアル・シェムの言葉、行動、彼の伝説は 数多く残った。
それから 人々は、それらを 繰り返し、バアル・シェムを 模倣し続けている。
こうした人々は 偽物にならざるを得ない。

しかし、そうなるのは当然であって、彼らに 腹を立ててはいけない。

私が ここにいなくなったら、この共同体は さほど楽しいものではなくなるだろう。
楽しいものには なり得ない。
だが、そうなって当然だ。
私の言葉が そこに残り、人々はそれを 繰り返す、そして信心深く 私の言葉に従うだろう。
だが、 それには努力が伴う。
たった今、努力はない。
あなたたちは私とともに流れているだけだ。
たった今、それは愛の営みだが、あとにはある種の 達成すべき義務となるだろう。
あなたたちは 義務感を覚えるだろう。

あなたたちは 私を覚えていて、同じように生きたいと思うだろう。
だが、 生き生きとした何かが、命が 欠けている。
マスターがいなくなって 残るのは、決まって、死体となった その教えだけだ。

だから、常に 生きたマスターを探しなさい。
死んだマスターは 無用だ。
死んだマスターとは 死んだ教えに他ならない。
常に 生きたマスターを探すこと。
しかし、人々のマインドは とても鈍重だから、探すのは極めて難しい。
誰かを マスターだと悟ったときには、その人はいない。
ここが 難しいところだ。
エスがマスターであると悟ったときには、もうそこにイエスはいない。
そのときには、キリスト教徒、教会、法王と司祭しかいない。
そして、彼らが あなたを捕まえる。

そう、ハシディズムは 伝統と化し、ハシディズムの人々は いなくなった。
彼らは 生きた宗教、とても生き生きとした 川だった。

こんな話を聞いた。


ある過激な 反キリスト教徒である ユダヤ人が死の床についていた。
家族の者が全員、周りに集められたとき、老人は「司祭を呼んでくれ」と 喘ぎながら言った。

皆、雷に撃たれたような ショックを覚えた。
しかし、彼の妻が長男に「行きなさい、末期の望みなのだから、司祭を呼んできなさい」と言った。
そこで長男は カトリックの司祭を呼びに行った。
司祭は その老人を 教会に受け入れ、最後の儀礼をとり行い立ち去った。

長男が 目に涙を浮かべて 父親に聞いた、「父さん、あなたは これまでずっと、ローマ教会は キリストの敵対者だと信じるように、私たちを しつけてきましたね。
最後になって、どうしてローマ教会に入ったりできるのですか。
父さんはユダヤ人で、常にユダヤの伝統を信じてきました。
最後になって、どうしてそんなことができるのですか」

息を引き取る間際に 老人は呟いた、「偽物が、もうひとり死ぬ」

老人は、一人のカトリック教徒が この世から消えていくよう、カトリックに改宗した ーー「偽物が、もうひとり死ぬ」

いつだって人々は そのようになる。
マインドで生きているからだ。
マインドは 伝統だ。

こんな話を聞いた。


「あなたの おじいさんって、宗教的な人 ? 」と 女子学生が デートの最中に聞いた。
「伝統を重んじる正統派でね、チェスをするとき、ビショップ (「僧正」という駒 )を 使わずに ラビを使うんだ」と 男の子は答えた。


自我は 極めて型にはまった動きをする。
革命的であるには、自我を超えることが必要だ。
また、一度できたらそれで終わりというのではなく、何度も何度も、 一瞬一瞬、超えなくてはならない。
なぜなら、自我はあなたに忍び寄り あなたを刻むからだ。
一瞬一瞬の 生の出来事、体験、そのすべてが 自我となる。
それは 捨てなくてはならない。
一度捨てれば それで終わりというのではなく、事あるごとに捨てなくてはならない。
集めたものは すべて捨てなければならず、そうしてはじめて 放棄は革命であり続ける。
世俗的なものを捨てるだけでなく、ユダヤ教徒だとか、キリスト教徒だとか、ヒンドゥー教徒だとか、イスラム教徒だとか、そうした日常のイデオロギーをも 捨てなくてはならない。
あるものを そのまま映し出す鏡のようであるためには、思考を捨てなくてはならない。
そうすれば、意識は乱されず、思考に色づけされず、ものごとを 直接見ることができる。
偏見によって乱されたり 歪められたりしない。

いったん伝統が出来上がると、いったん宗教が 革命でなくなると、あなたは自分流に解釈しだす。
すると、仏陀が言わんんとすることなど気にもかけず、仏陀の主張の中に 自分の考えを読みだす。
すると、クリシュナの言うことなど気にもかけず、ギーターの中に好き勝手なものを読み続ける。
曲解が起こる。
だから 私は何度も言う。
できるなら 生きたマスターを探しなさい、その人と一緒にいなさいと。
生きたマスターを 捻じ曲げることはできないからだ。
やってごらん !
生きているマスターは 自分の主張の曲解をやめさせられる。
だから、捻じ曲げられない。
だが、命のない本、聖典、聖書やコーランや ギーターに何ができる ?
それらは 神聖かもしれないが 完全に死んでいる。
好きなように扱える。
それに、人は とても狡猾で ずる賢い。



年老いたフェネシーが 気を失い 通りで倒れたとき、すぐに人々が群がって来て、老人の意識を戻すには どうしたらいいか指図し始めた。

マギー・オ・レイリーが「このひとに ウイスキーをあげて」と言った。
マギーに 注意を払う者はなく、群衆は あれこれ指図し続けた。
とうとう フェネシーが片目を開け、肘を使って体を起こすと 弱々しい声で、「あんたたちは黙っていてくれ。 マギー・オ・レイリーに話をさせるんだ」と言った。


私たちが聴きたいもの、欲しいもの、何であれ それが私たちの聖典、解釈になる。
人々は硬直している。
ハシディズムの人だろうが、スーフィーだろうが、禅宗の人だろうが、問題ではない。
人々は 硬直している、人々のマインドは 硬直している。
どこに所属していようとも、人々は そこで頑なになる。
あなたは ヒンドゥー教徒からキリスト教徒に移り変われる。
あるいはキリスト教徒からイスラム教徒に移り変われる。
だが あなたは あなたのまま、大した違いはない。
キリスト教徒になっても同じことをする、イスラム教徒になっても ヒンドゥー教徒になっても 同じことをする。
どんなイデオロギーを信じようが、重要ではない。
本当に 大事なのは あなた、あなたの意識、どういう意識にあるかだ。

あなたは私とともに ここにいる。
あなたの子供たち、次の世代は、父母が私を信じた という単純な理由で 私を信じるだろう。
私とは 何ひとつ 直接的な繋がりを持たないのに、ただ 単純に信じるだろう。
だが それは 信頼ではない。
それは 心理的、形式的なものに過ぎない。


時折、子供たちがやって来る。
母親が サニヤスを取るとき、子供もサニヤスを 取りたがる。
子供は 自分が何をしているのか、どこに行こうとしているのか わかっていない、母親の真似をしているだけだ。
母親は 自分からやって来たが、子供は影としてついて来たに過ぎない。
子供にとって 私は何の意味も持っていない、母親にとっては まったく違った意味を持っているが。
もし母親が 別のマスターのところに行っていたなら、子供はそこで加入の儀式を受けていただろう。
母親が イスラム教徒かキリスト教徒になっていたなら、子供もイスラム教徒かキリスト教徒に なっていただろう。

それは、子供にはどうでも良いこと、意味のないことだ。
だが、サニヤシンであることが その子の自我の一部になるかもしれない。
後(のち)の人生で、オレンジの服を着て マラを身に着け、型どおりのことを するかもしれない。
だが、その子は 世の至るところに見られるような 普通のマインドの持ち主になるだろう。
そして、その信念のもとに普通のマインドが いつもやりそうなことをするだろう。
頑なに信念を守り、狂信的になるだろう。
他でもない、ここにこそ真理がある と言い始めるだろう。

自分の信ずるものだけが本物で 他は偽物だ と 言うとき、あなたは真実との繋がりを少しも持たない。
自我の主張と 繋がっているに過ぎない。
「私の国は正しい。 私の宗教は正しい。 間違っていようが正しかろうが、私の国は正しくなくてはならない。 私の宗教は正しくなくてはならない。
なぜなら私の宗教だからだ」、 これが 自我の 主張だ。

心の底では、私の「私」こそ 正さなくてはならないのだ。



(第五の質問)終わり・・・第六の質問へ 続く