( “知る” ということは
“ あなた自身が知った ” ときにのみ
それが あなた自身の直接の体験であるときにのみ 生きてくるのだと。
他を通して知るときには
それは ただの記憶であって 知識ではない。)
記憶というのは 死んでいる--
あなたがたが 多くのものを寄せ集めるときには------
知識の 富、教典の 富が まわり中に集められ
あなたの頭(マインド)は “ 濃縮図書館 ” だ。
と そのうちに あなたは
自分は ほかの人たちの重荷を運び歩いているだけだ
何ひとつ 自分に属しているものはない
自分が 知ったわけではない と気づいてくる。
そうなったら、あなたは それを 落とすことができる
そういった知識のすべてを 落とすことができるのだ。
その 落とすことの中で
新しいタイプの 無知 が あなたの内側に生じてくる。
この 無知 は、“無知な人々の無知” ではない。
ふむ?
これは 賢者の在り方だ、知恵の在り方だ--
賢い人だけが、私は 知らない と言うことができる。
そして
私は知らない と言うことの奥底で
彼は 知識を切望しているわけではない。
彼は 単純に事実を述べているだけだ。
あなたがたが 心(ハート)をこめて、“私は知らない”と 言えるとき
まさに その瞬間
あなたがたの 眼は ひらかれる!
あなたが 自分の全一性(トータリティ)をもって こう言える瞬間
私は 知らない--と
あなたは 知識に対して有能になったのだ。
この無知は 美しい。
が、この無知は 知識を通して達成されるもの
それは 豊かさを通して達成される貧しさだ。
そして
同じことが 自我(エゴ)についても起こる。
もし持っていたら 失うことができる--
仏陀が玉座を降りて 一介の乞食になったとき------
いったい仏陀にとって その必要性は 何だったのだろう?
彼は王として君臨していた
その自我(エゴ)の 頂点(ピーク)に在った------
が、この極端な動きは なぜだろう?
宮殿から街路に降りて 乞食になるとは?
が
仏陀の その物乞いの内には美しさがあった。
大地は かくも美しい乞食を知ったことはなかった!
かくも豊かな乞食
王者のような乞食
このような帝王--
玉座から降りてきたときの彼には いったい何が起こったのだろうか?
彼は 自分の自我(エゴ)から降りてきたのだ
王位とは シンボル以外の何ものでもない。
自我(エゴ)のシンボル
権力の、威信の、地位のシンボル------
彼は そこから降りてきた--
そして、 “ 無我が起こった ”。
この 無我、自我(エゴ)の無い状態は 謙虚とはちがう。
この無我は 卑下とはちがう。
謙虚な人々は たくさんいるかもしれないが、
彼らの その へりくだりの下には 微妙な自我(エゴ)がはたらいている。
「落ちるのは熟れた果実だけ------04」へ つづく