saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第6話 ーーー Q&A 最初の質問 (04)

…( ここに ひとつの パラドックスがある
ただ 本当に進化した自我(エゴ)だけが 明け渡せる )

普通,エゴイストは 明け渡すことなんかできないと思っている
私の観察では そうじゃない

そして,それはいつの世にも変わらぬ ブッダたちの観察でもある
ただ 完璧なエゴイストだけが 明け渡せる
なぜならば
彼だけが 自我(エゴ)の 悲劇を知っているからだ
彼だけが明け渡すだけの 強さを備えている
彼は自我(エゴ)の あらゆる可能性を 知りつくした

そして,彼は すさまじい欲求不満に 落ち込んでいる
彼は 大いに 苦しんだ
そして彼は もうたくさんだ ということを知っている

そして,彼は どんなものでもいい
それを 明け渡す口実を 欲しがっている
その口実は 神かもしれないし
その口実は マスターかもしれない
あるいは ほかのどんな口実でもいい

とにかく彼は それを明け渡して しまいたい
その荷は 彼には重すぎる
彼は それを長いこと 背負い続けてきた


自分の自我(エゴ)を 発達させていない人たちも 明け渡すことはできる
けれども,彼らの明け渡しは完璧ではあるまい
それは トータルでは あるまい
何か内側の 深いところにあるものが しがみつき続けることだろう
何か内側の 深いところにあるものが依然として
「ひょっとしたら自我(エゴ)には何かがあるのではあるまいか
なぜお前さんは明け渡したりするんだ」
と 希望を抱き続ける事だろう

東洋では,自我は あまりよく発達させられてこなかった
無我 という教えのせいで
「もし自我(エゴ)が 明け渡されなければいけないのだとしたら
なぜ それを発達させるのか ?
何のために ? 」
という ひとつの誤解が起ったのだ
「もしある日 それが放棄されなければいけないのだとしたら
なぜ構うのか ?
それをつくり出すのに なんでそんなに大変な努力をするのか ? 」
という単純な ロジックだ

どうせそれは 落とされなくちゃいけないんだろう ! ーーー

そこで,東洋は 自我(エゴ)を発達させることに あまり構わなかった

そして,東洋的 心(マインド)は
誰にでも ごく簡単に頭を下げられる
何の 苦もない

それはいつでも 明け渡す用意がある
しかし,その明け渡しは
基本的には 不可能なものだ
なぜならば,まだ明け渡すだけの 自我(エゴ)が ないのだから ーーー

あなた方は びっくりするに 違いない
東洋の あらゆるブッダたちは
みなクシャトリヤ(王族・武士階級)の出だった
仏陀マハーヴィーラ,パールシュワ,ネーミ
あらゆるジャイナ教ティータンカラ(歴代の大聖)たち ーーー
その24人は みな武士階級に属している

そして,ヒンドゥー教の アヴァターラ(大師)たちも 全員クシャトリヤに属している
ラム,クリシュナ・・・
ただし ひとりだけ例外がいる
パルシュラムだ
彼は 偶然としか思えないのだが
バラモン(僧侶・司祭階級)の家庭に 生まれた
というのも
彼ほど偉大な武人は なかなかいないからだ
それは 何かの偶然だったに違いない
彼の 一生は 絶えざる戦いだった


パルシュラムを除き,ひとりのバラモン
ブッダや アヴァターラや ティータンカラになったことがないというのは ひとつの驚異だ
なぜだろう ?

バラモンというのは謙虚だ
一番の はじめから彼は 謙虚さの中で
謙虚さのために育て上げられてきている
無我ということが
一番の はじめから彼に教え込まれてきている
だから,その自我(エゴ)は 熟していない

そして,未熟な自我(エゴ)は しがみつくものなのだ


東洋では
人々は ごくごく断片的な自我(エゴ)しか持っていない
そして,彼らは 明け渡すことなど簡単だと思っている
彼らは いつ誰にでも 明け渡す用意がある
ちょっと何かがあれば
彼らは すぐにも明け渡す用意がある
けれども
彼らの明け渡しは けっして深いところまで届かない
それは浅薄なものにとどまる

西洋では ちょうどその反対になっている
西洋から来る人たちは
とてもとても強い,発達した自我(エゴ)を持っている
なぜならば,西洋の教育全体が
進化した,はっきりとした境目のある,よき教養を身につけた
洗練された自我(エゴ)を つくりだすことに 主眼を置いているからだ
彼らは 明け渡すことなど とうていできるものじゃないと思っている
彼らは
“ 明け渡し(surrender) ” などという言葉すら 聞いたことがない
それは 醜悪に見える
まさに その考え方そのものが 侮辱的だ

だが,パラドックス
西洋人の男性あるいは女性が 明け渡すとき
その明渡しは 本当に深く達する
それは 彼の実存
あるいは彼女の実存の まさに核心そのものにまで達する ということだ
なぜならば,その自我(エゴ)が ごく発達したものだからだ
その自我(エゴ)は 進化している
明け渡すのが とても難しいと思うのは そのためだ
だが,もし明け渡しが起こったなら
それは まさに核心まで達する
それは 絶対的なものだ

東洋では
人々は 明け渡しなど ごく簡単だと考えている
けれども,その自我(エゴ)は あまり進化したものじゃない
だから,それはけっして深いところまで届かない


ブッダというのは
生の経験,生の火
生の地獄の中に はいって行き

そして,彼の自我(エゴ)を その究極の可能性にまで
まさに 限界ぎりぎりまで熟させた者を言う
そして
その瞬間において 自我(エゴ)は崩れ,消え失せる

ふたたび あなたは ひとりの子供だ
それはひとつの再誕だ
それは 復活だ
まず あなたは 自我(エゴ)という十字架を苦しまなければならない
そして,その十字架を 自分自身の肩に 背負わなければならない
それも,最後の 最後の 最後の最後まで ーーー

自我(エゴ)というものは 学ばなくてはならないものだ
そうしてはじめて あなたは それを忘れることができる
そして,そうなったとき
そこには 大いなるよろこびがある
監獄から自由になったとき
あなたの実存の中には ひとつのダンスが
ひとつの お祝いがある

監獄の外にいる 人たちが
なんでそんなに 死んだように鈍感なのか
自分自身を 引きずって歩いているのか 信じられない
なぜ彼らは 踊っていないのだろう ?

なぜ彼らは 祝っていないのだろう ? ーーー

それは 無理な相談だ
彼らは 監獄の悲劇を 味わったことがないのだ


これら 七つの扉は
あなたが ひとりのブッダとなる前に 使われなければならないものだ



(04)終わり・・・(05)へ 続く