saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「〈彼方〉から 」 第五の質問 (01)

第五の質問
「瞑想は 情熱的で あることができますか ? 」



そう、それが 瞑想が存在するための 唯一の道だ
情熱は エネルギー、情熱は 炎、情熱は 生命だ

もしあなたが どんな情熱も、強烈さも、「炎」も なく
ただ そこそこに瞑想を やっているとしたら、何も 起こらない

もしあなたが たんなる儀式として 祈るとしたら
それがハートのなかに 湧き上がった愛ではない としたら
それは無意味であり、ばかげたことだ

情熱もなく 神に祈っているなら、あなたと神のあいだには なんの交わりもない

ただ情熱だけが「橋」に、「渇き」に、「飢え」に なることが できる
あなたが 渇けば渇くほど ますます 可能性は大きくなる
渇き果てて、あなたが 渇きそのものに なり、あなたの全存在が 情熱に燃えたら
そのとき はじめて何かが起こる
その強烈さ、その 百度の 情熱の瞬間に ーーー


なまぬるく ならないことだ
人々は なまぬるい生き方をしている
彼らは これでもなく あれでもない
だから 彼らは凡庸なままでいる
あなたが凡庸であることを 超えたければ、大いなる情熱の人生を 創り出すがいい
あなたのすることが 何であれ、情熱的に やるがいい
歌うなら、情熱的に 歌いなさい
愛するなら、情熱的に 愛しなさい
絵を 描くなら、情熱的に 描きなさい
話すなら、情熱的に 話しなさい
聴くなら、情熱的に 聴きなさい
瞑想するなら、情熱的に 瞑想しなさい
そうすれば、あらゆるところで あなたは神に 触れはじめる
情熱があるところなら どこででもーーー

あなたが完全な情熱をもって 絵を描けば、その 絵を描くことが 瞑想になる
ほかに どんな瞑想をする必要もない

強烈に 情熱的に踊り、踊り手が消えて 踊りだけが 残るほどになったら、それは 瞑想だ
そうなったら ほかの瞑想の必要はない
ほかに どこへ行くこともなく、どんなヨーガの姿勢もいらない

踊り手が消えて、踊りだけがある
それこそが ヨーガのポーズになる
それは 純粋なエネルギー、波動する エネルギーだ


その状態のなかで あなたは触れる
なぜ その状態のなかでは 触れるのだろう ?

それは 情熱が偉大であるときには 自我(エゴ)が 死ぬからだ
自我(エゴ)は 凡庸なマインドのなかでだけ 存在できる



(01)終わり・・・(02)へ 続く