saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 生のアート The art of living (第二の質問)

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第二の質問

愛する 和尚、

あなたに できませんか。
私の頭を 切り落とせませんか。
私にはできないのです。
私にできないことは知っています、やってみたからです。




私にはできる。
だが、 多くの問題が生じるだろう。
あなたに ちょっとした話をしよう。


聖ペトロは、門の外で 今か 今かと待ちわびている 新参者のところへ戻った。
「あなたの名前が見つかりません。
名前の綴りを書いていただけませんか」と ペトロが言った。

男が 綴りを書くと、ペトロは もう一度 予約者名簿を調べに行った。
すぐに戻って来て、「ああ、あなたは、あと十年 入れませんね。
あなたの医者は 誰ですか」と言った。


もし私が あなたの頭を切り落としたら、聖ペトロが、「あと何年も 入れませんね。
あなたのグルは 誰ですか」と 尋ねるだろう。

他人にはできない、外部からできるようなものではない。
実を言えば、あなたにだって できない。
頭が落ちるよう、成長しなければならない。
あなたに できるものでも、無理強いできるものでもない。
より深い 理解によって、それは やって来る。

頭を落とすのは、最大級の 難事だ。
なぜなら、あなたは 頭に 同一化しているからだ。
あなたは 頭だ !
思考、イデオロギー、宗教、政治、聖典、知識 ーー あなたが 同一化しているものだ。
すべては 頭の中にある。
どうやったら落とせると言うのだね ?
頭を落とす とは どういうことか、考えてみるがいい。
落としたら、あなたは 誰なんだね ?
頭がなければ、あなたは 誰でもない。

理解できるよう 成長しなくてはならない。
この頭の上に、新しい頭を成長させることができて はじめて、この頭は落とせる。
努力して瞑想するのは すべてそのため ーー 新しい頭、思考の要らない。
イデオロギーの要らない頭、純粋な気づきであり、それ自体で 充足する頭、外的刺激を必要とせず、自身の内奥の中核でもって生きる頭が 育つようにするためだ。
新しい頭が育ったら、古い頭は いとも簡単に落ちる。
ひとりでに 落ちる。

もし私が 何かを押しつければ、あなたは 抵抗するだろう。
恐れ、おびえるだろう。
誰も死にたいとは思わない。
頭を落とすことは、学ぶべき 偉大なアートだ。

こんな話を聞いた。

絞首刑が 執行される日のことだった。
ムラ・ナスルディンは、絞首台の 階段の下まで連れて行かれたとき 突然 立ち止まり、登るのを拒んだ。
「どうしたんだ」「さあ、行こう」と 看守が 急(せ)かした。
「何だか、その階段、ひどく ぐらつきそうだ。 無事に 登れそうな気がしない」とナスルディンは言った。


吊るされようとしているところなのに、ムラは、階段が ひどく ぐらつきそうで無事には登れないと言う。
人は 死の瞬間でさえ、最後の 最後まで しがみつく。
誰も 死にたいとは思わない。
だが 死を学ばなければ、けっして生きることはできない、けっして生は 知り得ない。
生と死は 同じコインの うらおもて、ゆえに 死ぬことのできる人が、生きることのできる人なのだ。
両方を取るか、両方を落とすかだ。
その二つは ひとかたまりになって やって来る。
別々の ものではない。

いったん 死を恐れれば、生も 恐れざるを得ない。
私が、こうした ハシディズムの手法・姿勢について 語っているのはそのためだ。
その全体が「いかにして死ぬか」、その手法、道、手段から成り立っている。
死のアートは 生のアートでもある。
自我の死は 自我に非ざるものの 誕生であり、部分の死は 全体の誕生であり、人間の死は 神の誕生へと向かう 根本的な 一歩なのだ。

だが、死ぬのは難しい、極めて難しい。
観察したことがあるだろうか。
人間を除いて、自殺のできる動物はいない。
自殺を考えることさえ 動物には不可能だ。
考えたことがあるだろうか。
木が自殺したとか、動物が自殺したとか聞いたことがあるだろうか。
いや、人間にしかできない。
人間の知性が 自殺を可能にする。

と言っても、通常の自殺のことを 話しているのではない。
それは、肉体を交換するだけであって 本当の自殺ではないからだ。
私は 究極の自殺のことを話している。
一度 私が教えているような死に方をすれば、あなたは 二度と生を受けない。
宇宙の中に消え、いかなる形も取らない ーー あなたは 無形のものとなる。

こんな話を聞いた。

農夫の土地に侵入し、鶉(うずら)を 撃ったとして 男が訴えられた。
被告の弁護士は、農夫を混乱させようとした。
「さて、あなたは、この男が鶉を撃ったと断言できますか」と 弁護士が尋ねた。

「その男が 鶉を撃ったと言ったのではありません。 その疑いがある と言ったのです」と 農夫は答えた。

「ええ、まさにそこのところです。 なぜあなたは、この男を疑ったのですか」

「そうですね。 第一に、銃を持っているその男を 私の土地で捕まえたこと。
第二に、銃声が聞こえたあとで数羽の鶉が落ちてきたこと。
第三に、その男のポケットから四羽の鶉が見つかったこと、そしてそれは、鶉たちが ポケットに飛び込んでいって 自殺したものとは考えられないからです」と 農夫は答えた。


人間にしか 自殺はできない。
それは 人間の栄光だ。
人間だけが 生は生きるに値しないと、この生は まったく不毛だと考え得る。
普通、人々が自殺するのは 生の不毛を理解したからではなく、今生の不毛を理解したからに過ぎない。
彼らは 別の生で、他のどこかで、事うまくいくことを望んでいる。

霊的な意味での自殺とは、今生だけでなく、生それ自体が不毛であるという理解に至ることだ。
理解すると、どうしたら 何度も生まれずに済むか、どうしたら 肉体というトンネルに入らず、籠に閉じ込められずに済むか考え始める。
どうしたら いかなる形も持たず、完全に自由でいられるか考え始める。
これが解脱、これが開放だ。
あるいは救済と言ってもいい。

肉体の中にいては、けっして幸福になれない。
なぜなら、肉体は あなたを閉じ込めるものだからだ。
四方が壁になっている、あなたは 無理やり監獄に入れられている。
監獄のように見えないのは、あなたと 一緒に歩くからだ。
どこへ行っても 肉体は あなたについて来る、だから監獄とは思えない。

ほんの一瞬であっても、ひとたび肉体のない生を知れば、ひとたび肉体から 出られるようになれば、いかに束縛されているのか、幽閉されているのかわかるだろう。

肉体は束縛だ、マインドは束縛だ。
しかし、私があなたを 自由にできないことは知っておかねばならない。
ひとつ覚えておきなさい、外部の力によって 束縛するのは可能だが、外部の力によって 自由にするのは不可能だ。
誰かが あなたを監獄に入れる、それは できる。
だが、誰も あなたを監獄から出すことはできない。
監獄に 留まっていたければ、どこかに 別の監獄が見つかるだろう。
ひとつの監獄から逃げ出したとしても、別の監獄へ入っていくだろう ーー フライパンから火の中へ。
監獄は容易に変えられるが、変えても何ら違いはない。
それこそ、何千年もの間、皆がしてきたことだ。
それぞれの生において、あなたは ずっと監獄にいた。
ときには男性、ときには女性、黒人、白人、インド人、中国人、アメリカ人として。
形から形へと、可能な限り渡り歩いてきた。


人々が 私のところにやって来ると、私は 彼らを覗き込むのだが、 驚くのは いかに多くの形をとってきたか、いかに多くの肉体に住み、姿、 名前、宗教、国を変えてきたかということだ。
しかも、未だ飽きもせず、古い輪の中を 何度も回り続けている。

もうひとつ覚えておきなさい。
自殺は無条件に人間的なもので 動物は自殺しない、と 私は言ったが、飽くことについても 同様のことが言える。
飽くことも 無条件に人間的なものだ。
水牛は けっして飽きない、ロバは けっして飽きない。
飽きるのは 人間だけ、高度に意識が進化したものだけだ。
もし 自分の生に飽きなければ、極めて意識の低い段階に生きているということだ。

仏陀のような人は 飽きる、イエスのような人は 飽きる、マハヴィーラのような人は 飽きる、死ぬほど 飽き飽きする。
どこもかしこも繰り返しばかり、他には何もない。
飽きることにより 放棄が起こる。
世の中に飽きた者は サニヤシンになる。
別の世界を探求しようというのではない。
それは探求の終焉だ。
それは自殺、絶対的、究極的自殺だ。


(第二の質問)終わり・・・第三の質問へ 続く