saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死の アート」第三章 綱渡り (06)

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(…何をするかの 問題ではない、寺院や モスクへ行っても、まったく心を込めずに祈ることもある。
あなた次第だ。
あなたが 祈りに込める 質による。
食べる、タバコを吸う、飲む、こうした ささやかで平凡なことのすべてに 深い感謝の念を込めて 行えば、それらは 祈りになる )

つい先日の夜、ある男性がやって来た。
お辞儀をして私の足に触れた。
その触れ方というのが、まことに祈りのないものだった、インド人だったので、私には わかった。
義務感から そうしたに過ぎないのだろう。
あるいは、自分のしていることがわからなかったか ーー そうするよう教えられたに違いない。
だが、私は感じた、そのエネルギーは 全然祈りのないものだった。
それで私は、なぜここに来たのか不思議に思った。

彼はサニヤシンになりたがっていた。

私は けっして断らない、だが断りたかった。
私は、どうすべきか しばらく考えた。
もし断ったら・・・断るのは良くないだろう、しかし彼は完全に間違っている。
やっとのことで、私は言った、「あなたにサニヤスをあげよう」。
断れない、ノーとは言えないからだ。
ノーという言葉を口にするのは とても大変だ。

それで、私はサニヤスを与えた。
そのあと、すべてが明らかになった。
サニヤスをもらうなり男は こう言った、「こうして、あなたの元へやって来たのです。
私を助けて下さい。 私は別の部隊に ーー 彼は軍隊にいる ーー パランプルのどこかに配属されることになったのです。
和尚、あなたの霊力で ランチに配属させてください 」

私の霊力が、ランチに移動させるために使われなくてはならない。
はてさて、霊力を何だと思っているのだろうか。

今やすべてが明らかになった。
男はサニヤスになど興味がなかった、サニヤスを取ることは、願いを叶えてもらうための手土産でしかなかった。
きっと、サニヤスを取らずに配属転換を頼むのは、良くないと思ったのだろう。
だから、まずサニヤシンになって、それから 頼んだのだ。

祈りがない、霊的でないとは、まさに そういうふうに考えることを言う。
しかし、その男は自分がとても霊的だと思っていた。
パラマハンサ・ヨガナンダの信者だと言ったが、その口ぶりは とても傲慢なものだった。
とても得意げに、とても尊大にこう言った、「私は、パラマハンサ・ヨガナンダの信者、弟子です。
私は何年も勤めを続けています。
そういうわけで、ランチに行きたいのです」。
ランチは、パラマハンサ・ヨガナンダの弟子たちの拠点だ。
こうなると、この男の霊性のなさは完全無欠だ。
徹頭徹尾 霊的でない、祈りがない、というのが この男のやり方だ。

はっきりさせておきたいのは ここのところ、あなたが何をしているかではない ということだ。
あなたは、少しも祈りを込めずに私の足に触れることができる。
それでは意味がない。
だが、タバコを、祈りを込めて吸うことができる、すると あなたの祈りは神に届く。

ひどく凝り固まった宗教の観念を抱いている人が そうするのは、極めて難しい。
あなたたちには もっと流動的になってほしい。
凝り固まった観念を持ってはいけない。
注意するように。



パイプを手にしたラビのイスラエルが、仲間に加わった
人々は、とても親しみやすいイスラエルに質問した
「先生、神に仕えるにはどうしたら良いか教えてください 」


そうだ、深い友愛がなければ、問うことはできない。
また、深い友愛がなければ、問には答えられない。
師と弟子の間には 深い友愛がある。
それは友愛関係だ。
弟子は 然るべき秋(とき)が来るのを 待たなければならない。
師も 秋(とき)が来るのを 待たねばならない。

友愛が流れ、妨げるものがなくなったとき、答えは与えられる。
ときには、問いの答えが与えられなくとも、答えられることがある。
言葉にしなくとも、言いたいことは 伝えられる。



イスラエルはその質問に驚き
「私にわかるものですか」と答えた


「私にわかるものですか」ーー実は、これが 知る者たち 全員の答えなのだ。
「いかに神に仕えるか ? あなたたちは 荷の重すぎる質問をしている。 私には答える資格がない」。

「私にわかるはずがない」と、師は答えた。

愛について知り得ることは何もない、神への奉仕について知り得ることは何もない ーー きわめて難しい問題だ。



だが、そのあと、こんな話を続けた


最初にイスラエルは「私にわかるものですか」と言った。
最初に、そういうものについては知り得ない と言った。
最初に、そういうものについての知識は与えられないと言った。
最初に、こうした事柄についての知識は深められないと言った ーー どうにもならないのだ。
だが、そのあと、話をした。

物語は、理論的な話とは まったく異なる。
物語は、より生き生きとし、示唆に富んでいる。
多くは語らないが、多くのことを教える。
それで 偉大な師たちは、物語り、喩え、逸話を 用いた。
直接的に説明すると、多くのことが台無しになってしまうからだ。

直接的な表現は、生硬で、粗野で、粗雑で、品がなさ過ぎる。
喩えは、極めて遠まわしに表現するが、事をわかりやすくする。
論理を控え、事を詩的にし、生に近づけ、いっそう逆説的なものにする。
神に対して 三段論法は使えない、論ずることもできない。
だが、物語り でなら語ることができる。

ユダヤ人は、喩えの豊富さ という点では、世界有数の民族だ。
エスユダヤ人だったが、かつてない見事な喩えを いくつか用いた。
ユダヤ人は 物語りの方法を学んだ。
実のところ、ユダヤ人に 大した哲学はない。
だが彼らには、見事な 哲学的喩えがある。
それは、語らずして、直には何も示さずして、多くを語る。
それは 空気を生み出す。
その空気の中で、事は 理解される。
それが、喩えという方便のすべてだ。



だが、そのあと、こんな話をした


最初に イスラエルは、「私にわかるものですか」と言った。
最初に、知識として知る可能性を あっさり否定した。

哲学者なら、「ええ、知っています」と 言うだろう。
明快な言葉で、論理的な、数学的な、三段論法の、理屈っぽい理論を提示するだろう。
哲学者は 説き伏せようとする。
当人は確信していないかもしれないが、あなたを黙らせることができる。

喩えは、けっして説き伏せない。
それは、あなたに 不意打ちを食らわせる、あなたを説得する。
あなたの 深部を くすぐる。

師が、「私にわかるものですか」と 言うときには、こういうことを言っているのだ。
「くつろぎなさい。 私は、そのことを議論するつもりも理屈を言うつもりもない。
心配しなくていい、説き伏せたりはしないから。
ちょっとした喩え話、短い話しだ。
楽しんでくれればいい」。

話しを聞き出すと、あなたは くつろぐ。

理屈を聞き出すと、あなたは緊張する。
緊張させるものは 役に立たない。
それは 破壊的だ。


だが、そのあと、こんな話を続けた

王様に、二人の友人がいた
しかし、二人とも罪を犯したことが判明した
二人を寵愛していた王様は、慈悲を与えたいと思ったが
無罪にはできなかった
王の言葉をもってしても、法を曲げることはできないからだ
そこで、王様はこのような裁断を下した
深い谷の両側を結んで綱が張られる
両名は、一人ずつ、その上を歩いて渡らねばならない
谷の反対側まで辿り着いた者は、救われる


喩え話は 雰囲気、
とても 家庭的な雰囲気だ。
まるで、あなたが寝るときに、おばあさんから話しをしてもらうような。
「お話してよ」と 子供はねだる。
話しをしてあげると 子供はくつろぎ、眠りに落ちる。
物語は気持ちを和らげる。
マインドを 圧迫することがない。
というよりも、物語は ハートと一緒に遊びだす。
物語を聞くとき、頭では聞かない。
頭では聞けない。

頭で聞くと、話しを聞き逃す。
頭で聞けば、話しを理解できなくなる。
話しは ハートで理解しなくてはならない。
それゆえ、「頭でっかち」の国民や民族は、すばらしいジョークが 理解できない。
例えば、ドイツ人だ !
彼らには理解できない。
ドイツ人は、世界でも有数の知的民族だが、おもしろいジョークの 蓄積がない。

ある男性がドイツ人に話しをしていた ーー 私は偶然、アシュラムで その話しを耳にした。
その人は ドイツ人に、素晴らしいドイツのジョークを 聞いたことがある、と話していた。
ドイツ人は言った、「でもね、僕はドイツ人だよ」
そこで彼は言った、「わかった。 じゃ、ものすごく ゆっくり話すから」


非常に難しい。
ドイツ人は 教授たちの、論理学者たちの国だ ーー カント、ヘーゲルフォイエルバッハ
ドイツ人は、常に頭を使ってきた。
頭脳を磨き、偉大な科学者、論理学者、哲学者を生み出した。
だが、何かを失っている。

インド人には、あまりジョークがない。
精神が極めて貧困なのだ。
特に、ヒンドゥー教のジョークは見当たらない。
インドで言われている ジョークは、すべて西洋からの借り物で、インドのそれは存在しない。
私はインドのジョークに 出くわしたためしがない ーー ジョークのことなら私に任せてもらって構わないが。
何しろ、世界のあらゆるジョークを 見聞きしたのだからね !

ヒンドゥー・ジョークなるものは存在しない。
なぜか。
これもまた、非常に知的な民族であるが故だ。
インド人は、理論を編み出し続けてきた。ヴェーダからサルヴァパリ・ラーダクリシュナに至るまで、理論につぐ理論を 編み出し続けてきた。
深すぎるほどに 深く追求したため、美しい物語の方法やジョークの作り方を忘れてしまったのだ。


ラビは その話を始めた。
弟子たちは くつろいだに違いない。
くつろいで、しかも集中して聞いたに違いない。
そこが物語りの すばらしいところだ。
物語が始まると、あなたは集中する、だが緊張はしない。
くつろぎながら 集中できる。
物語を聞くときには 受動的な集中力が生じる。
理屈を聞くときには ひどい緊張が生じる。
一言でも 聴き漏らせば、理解できないかもしれないからだ。
あなたは よりいっそう必死になる。

物語を聞くと、よりいっそう瞑想的になる。
別に失うものはない。
たとえ、話しの端々を 聞き漏らしたとしても、何もなくならない。
なぜなら、物語は さほど言葉を拠り所にしていないため、感触さえ掴んでいれば理解できるからだ。

弟子たちは くつろいだに違いない。

師はこの物語を 話して聞かせた。



そこで、王様はこのような裁断を下した
深い谷の両側を結んで綱が張られる
両名は、一人ずつ、その上を歩いて渡らねばならない
谷の反対側まで辿り着いた者は、命が救われる



(06)終わり・・・(07)へ 続く