saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死の アート」第三章 綱渡り (08)

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その人は言った。


「一方に倒れそうになったら、その都度反対側に身を反らしたんだ」


「それだけだ。
それ以上は何もない。
そうやって私はバランスを取った、そうやって真ん中に留まった」ーー 真ん中には 恩寵がある。


ラビは弟子たちに、「神に仕えるにはどうしたら良いか聞きたいのですね ?」と言い、この喩えを用いて 中央に留まるべきことを示唆した。

耽溺しすぎてもいけないし、放棄しすぎてもいけない。
世間にだけ いても いけないし、そこから離れすぎてもいけない。
バランスを 取り続けることだ。
耽溺の方に転びそうだと感じたら、放棄の方に傾きなさい。
世捨て人、苦行者に なりそうだと感じたら、もう一度 耽溺の方に傾きなさい。
中央に留まるのだ。

インドでは、道路に、「左側通行」と書かれた看板が見られる。
アメリカでは「右側通行」だ。

世間には、ニ種類の人間しかいない ーー 左側を歩く者と、右側を歩く者。
意識の頂点にいるのが、第三の人間であり、その人たちの間では「中央通行」がルールとなっている。
道路ではいけないが、生の道路では 中央を歩きなさい。
左でも右でもなく、ちょうど真ん中を。

中央にいれば、一瞬、バランスを感じるだろう。
ある場所、どちらの極にも傾いていない、ちょうど真ん中のところがあり、あなたは それを感じ取ることができる。
そこに いると、瞬(またた)く間に 恩寵が現れ、あらゆるものが調和する。

そうするのが、人間の 神への奉仕だ。
バランスを保っていれば、それが神への奉仕となる。
バランスを保っていれば、神はあなたを手にできる、あなたも神を手にできる。

生は技術ではない、科学ですらない。
生は アートだ。
というより、むしろ、直感と言った方がいいだろう。
あなたは それを 感じなくてはならない。
生は 綱渡りに似ている。

ラビは 見事な喩えを選んだ。
神のことは 全く語らない、奉仕のことは全く語らない。
実のところ、質問に対して、直接には 何も答えていない。
弟子たちは、質問のことなど忘れてしまったに違いない、それが喩えの良いところだ。
喩えはマインドを 質問と答えに 分裂させない、それは物事の有り様を直感させる。

生に関する 実際的知識はない。
覚えておきなさい、生はアメリカ人ではない、技術ではない。
アメリカ人の精神、すなわち現代の精神は、何事も技術にしてしまう傾向がある。
瞑想の場合ですら、現代の精神は すぐそれを技術にしようとする。
私たちは機械をこしらえているのだ。
だから、人間がいなくなり、私たちは 生との接触を完全に失う。

教えられない、掴み取るしかないものがあることを 忘れてはいけない。
私は ここにいる、あなたは私を見ることができる。
私を覗き込めば、バランスと沈黙が見えるだろう。
それは 有形のもの と言ってもいい。
触れることができる、聞くことができる。
それは ここにある。
言葉には できないし、それに到達するための技術を はっきり示すこともできない。
せいぜい私にできるのは、いくつか物語や喩え話をしてあげるくらいだ。
それは 暗示でしかない。
理解する者は 暗示が、種のように心の中に蒔かれるのを許す。
そのうち、然るべきときに、暗示の種は 芽を出すだろう。
そして、あなたが 私と同じ体験をしたとき、そのときはじめて、私のことを 真に理解するだろう。
私は対岸に渡った。
あなたは向こう岸で、「教えてくれ、どうやって渡ったんだ ?」と 叫んでいる。
私には これしか言えない。



「わからないけど
一方に倒れそうになったら、その都度反対側に身を反らしたんだ」



中央にいなさい。
バランスを失わないよう、いつも油断なく覚めていなさい。
そうすれば物事は 皆、ひとりでに片づいてゆく。



(08)終わり・・・(09)へ 続く