saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「そのままにしておきなさい」 (第二の質問)(01)

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第二の質問

シヴァ神は、「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」の中で、妻 デヴィに心の安定を保つ技法を色々と教えています。 ハシディズムの、そうした心の安定、バランスを保つための技法についてお話していただけませんか。



いや、私は そうした技法のことについては 何も話すつもりはない。
というのも、ハシディズムには 技法というものが まったくないからだ。
終始一貫して、技法を持たないというのが ハシディズムの姿勢だ。
ハシディズムには技法がない、ひたすら生を楽しむ。

ハシディズムは 瞑想の道を歩まない。
それは 祈りの道を歩む。
祈りには 技法がない。
瞑想は 内なる真実に達するための技法だから、数多くの技法があり得る。
ハシディズムは 科学ではなく芸術だ。
技法ではなく、愛に信を置く。

技法に走るマインドは 数学的だ ーー しっかり 頭にいれておきなさい。
愛する者のマインドは 数学的ではない、それは 詩人のマインドだ。
愛はロマンスであって 技法ではない。
愛は夢であって技法ではない。
愛には、生に至るまったく異なった道がある。

ハシディズムには 技法がない、ヨガもタントラもない。
生を、神を信頼し、与えられたものは 何でも楽しめ と 言うだけだ。
ありふれたものの一切が 尊く神聖になるように、生の些細なものの 一つ一つが 神聖になるように、感謝の気持ちを込めて 心から楽しみなさい。
あらゆるものが 神聖になるように。
愛、慈悲、感謝のエネルギーがあれば、穢(けが)れは 消える。


愛は 技法ではないから、愛する方法を 教えられる人は いない。
愛し方を教えよう などという本に出くわしたら、気をつけることだ。
一度 愛し方を身につけてしまったら、二度と 愛せなくなる。
そうした技法は 障害になる。
愛は自然に、ひとりでに起こる。
動物でさえ 愛し合っている。
キンゼイや マスターズ・アンド・ジョンソンなどいなくとも、科学の力など借りなくとも、動物は完全に オーガズムに達している。
セックスセラピストもいないし、愛し方を教わりに グルのところへ行くこともない。
それは 生まれつきのもの。
生まれて来るものには皆、具わっている。


生まれつき具わっているものが いくつかある。
子供が生まれる・・・誰にも呼吸の仕方は教えられない。
もしそれが 教えなければできないものだとしたら、誰ひとり生存する者はないだろう。
子供に教えるには 時間が必要だからだ。
まず 学校へ通わせ、言葉を教えたり 訓練したりしなければならない。
少なくとも 七年、ともすれば八年、十年かかって、やっと呼吸の仕方を教えられる。
「呼吸」という言葉の意味すら子供はわからない。
いや、それは教えるようなものではない。
子供は呼吸の能力を身につけて生まれてくる。
それは 生まれつきのものだ ーー 草むらの花がそうであるように、海に向かって流れていく水がそうであるように。

生まれるとすぐ、子供の全存在が呼吸を求める ーー これまで 呼吸をしたことがないから、何が起こるかも わからぬままに。
誰にも 教わったことはない、呼吸したことはない、体験はない。
それは ただ 起こる。

まったく同様に、十四歳になると、子供は異性にとても強く 惹かれだす。
誰が教えたわけでもない。
それどころか、教師たちは 反対のことを教えている。
一貫して、性欲や 性エネルギーに反対することを 教えてきたというのが人類の歴史と言えるだろう。
宗教、文化、文明、聖職者、政治家、皆、性の 抑圧の仕方を教えてきた。
にも関わらず、未だに抑圧できてはいない。
抑圧するのは 不可能なようだ。

それは自然現象だ。
湧き上がってくる。
逆らおうとも、湧き上がってくる。
事の事実を 見なくてはならない。
いくら逆らっても、湧き上がってくる。
それは あなたより大きい、統制することはできない。
自然なものだからだ。


ハシディズムは言う、自然な生き方をし始めると、ある日 突然、女性や 男性に対する愛や 生まれた後の 呼吸と同じように、ひとりでに 神への愛が生まれてくる、 と。
その尊い瞬間は 操ることができない。
目論(もくろ)むことも、準備することもできない。
が、その必要はない。
自然に生きるだけでいい。

自然と闘わず それとともに漂う、すると ある日 突然、神の恩寵が あなたに降りて来るだろう。
あなたの実存に、途方もない衝動が 生まれる。
存在 ーー 神と呼ぼう ーー への これまでにない愛が生まれる。
愛が生まれると、存在は個人的なものになるからだ。
すると、存在は そ れ ではなく 汝 となる。
あなたと存在は、わ れ と 汝 の 関係となる。

ハシディズムは、「不自然になってはいけない、不自然にならなければ ひとりでに祈りが起こる」としか言わない。
ハシディズムに 技法はない。
そして、そこがすばらしいところだ。

祈りの花を 咲かせることに しくじると、技法が必要になる。
瞑想は 祈りの代替え、祈りよりも劣る。
祈りができないと 瞑想が必要になる。
あなたの中に 祈りが生まれれば、どんな瞑想もいらない。
祈りとは 自然な瞑想であり、瞑想とは 努力を伴った祈りだ。
技法を伴った祈りが 瞑想であり、技法を伴なわない瞑想が 祈りだ。


ハシディズムは 祈りの宗教だ。
だから、放棄がない。
ハシディズムの人は、神が与えてくれた自然な生を生きる。
神が その人を どこへ置こうとも、その人は そこで生き、愛し、生の 小さな喜びを味わう。
一度 小さな喜びを味わうと、その効果が累積し、実存の中で 大きな喜びとなる。

無上の喜びが降りて来るのを 待ち望んではならない ーー このことは理解されなくてはならない。
そんなことは けっして起こらない。
無上の喜びとは、あなたの実存に蓄積された 小さな喜びに過ぎない。
小さな喜びの総和が、無上の喜びなのだ。
食べる ーー それを楽しむ。
飲む ーー それを楽しむ。
風呂に入る ーー それを楽しむ。
歩く ーー それを楽しむ。

何とも美しい世界、何とも美しい朝、何とも美しい雲・・・祝福するのに、他に 何がいる ?

満天の星・・・祈るのに、他に 何がいる ?

東から昇ってくる太陽・・・頭(こうべ)を垂れるのに、他に 何がいる ?

無数の棘の間から 顔を出し、蕾を開かせるバラの花。
か弱く壊れやすく、それでいて、風や稲光や 雷に立ち向かっていくほどに強いバラの花。
その勇気を見るがいい。
信頼を理解するのに、他に 何がいる ?

神に至る こうした小さな隙間を 見失ったとき、技法が 必要になる。
その小さな隙間を見続けていれば、効果が累積し それが大きな扉となる。
そして突然、祈りを 理解しだす。
理解するだけでなく、祈りに生きるようになる。

ハシディズムは、タントラとは 事にあたる姿勢が まったく違っている。
そして、ハシディズムは いかなるタントラよりも 優れている。
なぜなら、それは 自然なタントラ、無作為の道だからだ。
タオの道だ。

だが、マインドは 実に小賢しい。
マインドは 操作したがる、恋愛関係であっても、祈りという神秘的な現象であっても。
それは強力な 制御装置だ。
マインドは 操作に取りつかれていて、何ものも その対象から免れることを許さない。
そこで 技法ということになる。
マインドは常に 技法を求め、百計を案じ続ける。

あなたが百計を案じ、何でも自分でやろうとすれば、神は あなたに 入り込めない、あなたを操るチャンスが 得られない。
あなたは神の手助けを けっして許さない。
あなたは 自立しなくては と、自らが自らを助ける以外にはないと 思っている。
惨めでいる必要などないのに、あなたは 自分で自分を惨めにしている。



幼い子供が、庭で 腰を降ろしている父親の周りで 遊んでいた。
そして、大きな石を持ち上げようとした。
一生懸命 やってはみたが、大き過ぎて だめだった。
その子は汗をかいていた。

父親は言った、「お前は 力を出し切っていない」
子供は言った、「そんなことないよ。 全部出し切ってる。 でも、どうしたらいいかわからないの」
父親が言った、「お前は 父さんに助けを求めなかったね。 助けを求めることも お前の力なんだよ。
父さんが ここに座っているのに、助けを求めなかった。
だから、力を出し切っていないんだ」。


技法を頼りに生きている者は、自分の力を出し切っている と 考えているかもしれない。
だが、 神の助けを求めていない。
技法を用い、ただ瞑想しているだけの人は 貧しい。
ハシディズムの人は、本当に 力を出し切っている。
だから、とてつもなく豊かだ。
ハシディズムの人は 開いているが 技術志向のマインドは 閉じている。
そのマインドは、何事にも計画を 立て続ける。
計画が実現したとしても、あなたは 幸福ではないだろう。
というのは、あなたが立てた 計画だからだ。
それは あなたと同じほどに 小さい。
成功したとしても あなたは失敗者、成功したときでさえ挫折感を味わうだろう。
得るものなどないからだ。
失敗すれば 当然がっかりする。
失敗したときは挫折感を味わう。
ところが、成功したときにも あなたは挫折感を味わう。

聖なるものに 自分を開きなさい。
自然に生きなさい ーー 良くなろうとせず、観念や 道徳的 規範に縛られず、ただ自然に生きる。
自然が 唯一の 規律でなくてはならない。
何であれ 自然なものは良い、それが神の意思であり望みなのだから。
深く感謝しながら 自分の生が受け入れられれば、それが神の望む生だ。
もし神が あなたにセックスを、セックスを与えたなら ーー 神の方が 良く知っている ーー 無理に禁欲することはない。
強いられた禁欲は醜い、自然なセックスより醜い。
自然なセックスを 受け入れれば、ある地点を超えたとき、まったく違った生が始まる。

だがそれは、生の川を 漂いながら やって来る。



(第二の質問)(01)終わり・・・(02)へ 続く