saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死の アート」第三章 綱渡り (07)

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さて、この一文は極めて示唆に富んでいる。

・・・ 谷の反対側まで辿り着いた者は、命が救われる



エスは弟子たちに 何度も、「豊かな生が欲しければ、私のところに来るがいい。
豊かな生を 手にしたければ、私のところに来るがいい」と 言った。

だが生の豊かさは、生と死を超えた人、二元性を超え 対岸に渡った人にしか生まれない。
対岸、反対側 とは、超越の象徴に他ならない。
だがそれは、暗示だ。
特別なことは 何も言っていない、暗示が与えられているに過ぎない。

話は続く。



それは王の命として施行された
二人のうち、最初の一人が無事に渡り終えた


さて、ここに 二種類の 人間がいる。
最初の人は、無事に、あっさりと渡ってしまった。
普通 私たちは、綱の渡り方を聞きたくなる。
谷の両側を結んで綱が張られている ーー 危険だ。
普通は、どうやって渡ったらいいか、その方法、手段、手順を知りたくなる。
「いかにして ? 」を 知りたくなる。
その技術、技術があるはずだ。
何世紀にもわたって、人は綱の上を歩いてきたのだから。

ところが、最初の人は聞きもせず、もう一人が歩き出すのを待ちもせず、すっと 歩き出した。
他の者を 先に行かせようとして当然だ。
何はともあれ、それを見て観察できるし、自分が渡るときには それが役立つだろう。
だが 違った、最初の人は すっと歩いた。
きっと、途方もない信頼の人だったのだろう、疑いのない 確信の人だったのだろう。
生における 一つのことーー 学ぶ方法は ただ一つ、生きてみること、体験してみることだ と知った人だったのだろう。
他に方法はない。

綱を渡る人を見ても、綱渡りは 学べない、絶対に。
その技は、外から観察できるようなものではないからだ。
それは、歩いた人にしか わからない、ある種の 内的な平衡感覚だ。
それは 伝えられない。
人に教えたり、言葉にしたりすることはできない。
どんな綱渡り師でも、自分のやり方は教えられない。

あなたは自転車に乗る。
どうやって 乗るのか、人に伝えられるだろうか。
あなたは バランスの 取り方を知っている。
それは 一種の綱渡り、まっすぐ並んだ 二つの車輪が綱の上を走るようなものだ。
だが、あなたは少しの不安もなく スピードを出す。
誰かに その秘訣を聞かれたら、それを H2Oのような形にまとめられるだろうか。
一般的な原理にまとめられるだろうか。
あなたは「これが その原理です。 私はその原理に従っています」とは言わないだろう、「自転車に乗ってみるしかありません。
手を貸しますよ。
何度か転ぶでしょうが、転んでみて、コツを得るにはやってみるしかない と わかるでしょう」と言うだろう。

泳ぎを知るには 泳いでみるしかない。
それには あらゆる危険が伴なう。


最初の人は、生を生きて、深い理解に 達していたに違いない。
その生は 教科書のようなものではない。
それは教えられない、体験しなくてはならない。
その人は 途方もない気づきの持ち主だったはずだ。
躊躇しなかった、すっと歩いた。
まるで、いつも綱渡りをしていたかのように。
彼は、これまで 綱渡りをしたことはなかった、そのときが初めてだった。

だが、気づきのある人にとっては すべてが初めてなのだ。
にも関わらず、気づきのある人は 事を完璧にこなす ーー たとえ初めてであっても。
その巧みな技は、過去ではなく 現在 から生まれてくる。
そのことを 覚えておきなさい。

物事には、二通りのやり方がある。
以前 やったことがある場合 ーー あなたは どうすべきか知っている、現在にいる必要はない、ただ機械的にすることができる。
しかし、以前 やったことがなく、初めてのときには、とてつもなく注意深くなくてはならない。
過去の 経験が 一切ないからだ。
したがって、記憶には頼れない、気づきに頼らねばならない。

これらは、二つのものを元にする働きだ。
記憶、知識、過去、マインドを元にしている働きか、気づき、現在、ノーマインドを元にしている働きか。
最初の人は、間違いなく ノーマインドの人、何が起こるか 注意深く見ていさえすればいい、と 知っている人だった。
何が起こっても、それで良し ーー すばらしい勇気だ。



二人のうち、最初の一人が無事に渡り終えた
もう一人は、今だ同じ所に立っていた
そして、渡り終えた友人に向かって叫んだ
「教えてくれ。 どうやって渡ったんだ ?」


二番目のは、多数者の、大衆のマインドだ。
二番目の人は、渡り方を知りたがっている。
だが、渡る方法など あるだろうか、学べるような技術など あるだろうか。
彼は、友人の答えを待っている。



「教えてくれ、どうやって渡ったんだ ?」


二番目の人は、知識の信奉者、他人の経験の信奉者だったに違いない。

多くの人が 私のところにやって来て、「和尚、教えてください。 あなたに何が起こったのですか」と言う。
しかし、それを聞いて どうするのだろう ?

仏陀は そのことについて語った。
マハヴィーラも 語った。
エスも語った。
ところで、あなたはどうなんだね ?

あなたに起こったのでなければ 意味はない。
さらに私が その話をして、それもまたあなたの記憶に 加えることもできる。
だが、無益だ。

人が教えてくれるのを 待っていても無駄だ。
人が 教えられる知識には 価値がないし、少しでも価値のある知識は 教えることも 伝えることもできない。



最初の者が、呼びかけに答えた
「わからないけど」


渡り終えたのに、それでも「わからないけど」と 言った。
というのも、事実として 生は知識にならないからだ。
生は知識にならない、中身のたくさん詰まった体験であり続ける。
それを言葉にしたり、概念化したり、明快な理論にしたりすることはできない。



「わからないけど
一方に倒れそうになったら、その都度反対側に身を反らしたんだ」


二つの極、左と 右が あった、左に傾き過ぎて バランスが取れていないと感じたら、右に体を反らした。
しかし、右に傾き過ぎて バランスが取れていないと感じたら、また左に体を反らしてバランスを取らなければならなかった ーー これ以上は言えない。

彼は 二つのことを 言った。
一つは、「それを知識という形で表すことはできない、手掛かりを与えるくらいしかできない。
何が起こったのか正確にはわからないが、これがその手掛かりだ。
大したものではないし、実際 必要のないものだ。
あなたも自分で体験するだろう。
だがとにかく、これだけは言える」。

仏陀は何度も、「あなたに 何が起こったのですか」と 聞かれた。
そして いつもこう答えていた、「それは 言葉にしようがない。 しかし、どういう状況で起こったか、それなら教えられる。
少しはあなたの役に立つかもしれない。
究極の真理を語ることはできないが、どのように、何を、どんなふうにしたときに それが起こったのか、恩寵が降り注いできたとき、至福が訪れたとき 私がどのような状況にあったのか、それについてなら 話はできる」。



(07)終わり・・・(08)へ 続く