saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

The Art of Dying 第五章 「所有と実存」(08)

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ある ハシディズムの ラビの話を聞いたことがある。

彼は、「生は 川のようなものだ」と 言った。
一人の弟子が、「なぜですか」と 尋ねた。
ラビは、「わかるはずがなかろう。 哲学者でもあるまいし」と 言った。

別の日にも、「生は 川のようなものだ」と 言った。
「なぜですか」と 他の弟子が尋ねた。
「お前の言う通りだ。 川であるべき理由などない」と ラビは言った。


これは途方もない理解だ。
狂信性はない。
知る者には ユーモアのセンスが生まれる。
このことは いつも頭に置いておきなさい。
ユーモアのセンスのない人に会ったら、その人は 全然知らないのだと、よく心得ておきなさい。
深刻な人に出会ったら、知っている振りをしているのだと確信していい。
知れば 誠実にはなるが、深刻さは すっかり消える。
知れば 遊び心が、ユーモアのセンスが生まれる。
ユーモアのセンスは 必要不可欠だ。

聖者を見つけても ユーモアのセンスがなかったら、その人は聖者でも何でもない。
聖者ではあり得ない。
まさに その深刻さが、達していないことを物語っている。
ひとたび、自分自身の内的な体験をしたら、とても いたずらっぽくなる。
とても純粋で、子供のようになる。

知識の人は とてもまじめだ。
知識の人は常に深刻な、陰鬱な空気をまとっている。
深刻な空気をまとっているだけでなく、近づく人を 皆 深刻にする。
それを 押しつける。
実のところ、知識の人は、心の奥底で自分が何も知らないことを 気に病んでいる。
くつろぐことができない。
その 深刻さが 緊張なのだ。
苦しんでいる。
事柄につけられた 名称しか知らないこと、自分の知識は すべて偽物であることがわかっている。
だから、笑い飛ばせない。


さあ、聞きなさい。


「生は川のようなものだ」とラビは言った。
すると弟子が、「なぜですか」と尋ねた。
「わかるはずがなかろう。 哲学者でもあるまいし」

別の日にも、「生は川のようなものだ」と言った。
他の弟子が、「なぜですか」と尋ねた。
「お前の言う通りだ。 川であるべき理由などない」とラビは言った。


深刻でないのが わかるかね ?
途方もない ユーモアのセンスが わかるかね ?

ハシディズムは、世にも偉大な聖人を 生み出した。
私が彼らを とても尊敬しているのは、 深刻な人々ではないからだ。
ハシディズムの人々は、 ジョークを言い 笑うことができる。
他人を笑うだけでなく、自分自身をも 笑える。
そこが すばらしいところだ。
知識を集め続ければ ものすごい量になるだろうが、いざというときに 役に立たない。
知識を 投げ散らかし、人に見せつけたり ひけらかしたりはできるが、いざというとき、家が火事になったとき、突然、知っていることを 全部忘れてしまっていることに 気づくだろう。
知識は 記憶の中に あったに過ぎず、そもそも知ってはいなかったからだ。
それは 記憶に過ぎなかった。

緊急事態の発生するところでは・・・例えば 人が死に 直面しているとき、人は 知っていることを すべて忘れる。
そのときには、魂が 不死であることを 覚えていない ーー 他人には 不死であると教えたのだが。
そのときには、神の元へ 帰っていくのであり、楽しく 踊りながら行くべきだ ということを 覚えていない。
そのとき人は、生に しがみつきだす。
知識は 全部 なくなってしまう。

私は、非常に学識があり、非常に知的で 国中に名を知られている人と面識があった。
学識があるだけでなく、クリシュナムルティの 支持者でもあった。
時折 私に会いに来ては、瞑想など必要ない と言うのだった ーー クリシュナムルティが そう言うからだ。

私は、話を聞いて 笑った。
「なぜ、私が そういうことを言うたびに笑うのですか」と その人は尋ねた。
私は 何度もこう言った、「私は あなたの言うことではなく、あなたを聴いているのだ。
あなたの実存は、まったく違ったことを伝えている。
本当に瞑想が必要ないなら、経典も、技法も、祈りでさえも必要ないだろう。
あなたは そのことを理解している。
だったら、その理解によって あなたが全面的に変容していてもいいはずだ」。
彼は まじめに答えた、「おっしゃる通りです。
知的には理解しています。
しかし、いつか、知的にではない理解にも達するでしょう。
私は 第一段階を 踏み越えました。
第二段階も やってくるでしょう」。



(08)終わり・・・(09)へ 続く