saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第5話 ーーー 〈無〉の香り (04)

…(〈知覚〉というのは〈知識〉とは 何の関係もない

実際のところ
知識を通して 知覚する場合には正しく知覚している とは言えない
あらゆる知識は さまざまな投影を生む
知識というのは 偏見だ
知識というのは 先入観だ
知識というのは 断定だ
あなたは その中に はいって行きもせずに 結論をくだしてしまっている )


たとえば
もしあなたが すでに心の中に ひとつの結論を持って 私のところに来るとしたら
ーーーそれは私に 賛成であるかもしれないし
それは私に 反対であるかもしれない
それは 問題じゃないーーー

もしあなたが ひとつの結論を持って 私のところへ来るとしたら
そのときには,あなたは ひとつの雲と 一緒にやって来る
そうしたら
あなたはあなたの その雲を通して 私を見てばかりいるだろう
そして当然,あなたの雲は 私の上に 影を投げかけるだろう

もし「この人こそ 正解だ」という観念を持って 私のところへ来たのだとしたら
そのときには,あなたは
何か 自分の考え方を支え続けてくれるものを 見出すに違いない

もし
「この人は おかしい
危険だ 邪悪だ」という観念を持って来ているとしたら
そのときにも あなたは
何か 自分のその観念を 支えてくれるようなものを 見出し続けることだろう


あなたが持ち運んでいるような 観念というのは
どれもこれも みな,それ自体を 存続させようとする性質を持っている
それは自己証明に余念がない
そして,ある先入観を持って 来た人は
必ずその先入観を さらに強めて 去って行くだろう
実際には,彼はまったく 私のところへ来ているとは 言えない
私のところへ来るには,曇りが なくなっている必要がある

賛成だの反対だのという どんな先入観もなくーーー
どんな ア-プリオリ(先験性)もなくーーー

あなたはただ,そこに何があるのかを 見に来る
どんな意見も 持ち込まない
いろいろなことを聞いてはいるけれども
そのどれも 信じたりはしない
あなたはただ自分自身の目でもって見るために来る
自分自身のハートで感じるために来る
それが 宗教的人間というものの資質だ

そして,もし〈真実〉を 知りたかったら
あなたは,時代から時代へと
幾多の生にわたって かき集めてきた あらゆる種類の知識を 落とさなければなるまい


誰かが 知識を持って〈真実〉のところへやって来ても
それ は けっして 見えない
その人は 盲同然なのだ

知識は あなたを 盲にする

もし クリアーな目を 持ちたかったら
知識を 落としなさい
知覚というものは 知識などとは 何の関係もない
〈真実〉と〈知識〉とは ウマが合わないのだ
知識には 生や 存在の無辺の広がりを 包み込むことができない
知識は あまりにも ちっぽけだ
あまりにも小さい
そして 存在というのは あまりにも巨大だ
あまりにも 莫大だ

どうして その知識に 存在を包み込むことができる ?
それは 無理だ
そして,もし存在を あなたの知識のパターンなどに押し込めようとしたら
あなたは その美しさを ぶち壊しにしてしまうだろう
その真実を ぶち壊しにしてしまうだろう

ひとたび存在が 知識に置換されてしまったら
それはもう 存在じゃない
それは あたかも,ある人が インドの地図を 持って歩いて
自分はインドを持ち歩いているのだと 思い込むようなものだ
どんな地図にも インドを内包することなど できるものじゃない


月の写真は 月ではない
神という言葉は 神じゃない
愛という言葉も 愛じゃない
どんな言葉にも,生の神秘を内包することは できない

そして知識というのは
ただ 言葉,言葉,言葉 以外の何ものでもない
知識というのは 大いなる幻想だ

だからこそ仏陀は言う
自分の中に〈無〉を 定着させよ,とーーー


無 というのは ひとつの 知 ら な い 状態を言う
あなたの意識に 何の曇りもないとき
あなたは 何でもない
何でもないものは〈真実〉と 完璧に うまくいく



(04)終わり・・・(05)へ 続く