saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死のアート」第二章 失うものは何もない (最初の質問)

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最初の質問

愛する和尚、
どのようにして 死に備えればよいのでしょうか ?



何であれ 決して蓄えないこと ーー 力も、お金も、名声も、徳も、知識も、霊的体験と言われるものでも。
蓄えてはいけない。
蓄えなければ いつでも死ねる。
なぜなら、失うものがないからだ。

死ぬのが 本当に恐くて 死を恐れるのではない。
死の恐怖は 生の蓄積から生じる。
失うものが ありすぎてそれに しがみつくのだ。
「心の貧しい者は幸いである」と イエスは言ったが、そういう意味だ。

乞食になれ、世を捨てろ という意味ではない。
俗世にいても 俗世にまみれるな ということだ。
内に貯め込まず、心を清貧にしておく。
何も 持たない、そうすれば喜んで死ねる。
持つことは、問題ではあっても 生ではない。
持てば持つほど 失うのを恐れる。
何も持たず、純粋で心が少しも汚れていなければ、ただ一人 そこにいるだけであれば、いつでも消え去ることができる。
死がいつ何時、扉を叩こうと 覚悟ができている。
あなたは 何一つ失わない。
死とともに立ち去っても、失うものはない。
あなたは 新たな体験をしにいく。

蓄えては ならない ーー 無条件に。
俗なるものを蓄えてはならないが、徳や知識、霊的体験やヴィジョンなら良いと 言っているのではない。
違う、無条件に だめだと言っているのだ。
蓄えないように。

世を捨てろ と言う人たちがいる、とりわけ東洋に多い。
「世俗的なものを蓄えても、死んだら持っていけないから蓄えるな」と言う。
こういう人たちは、世間一般の人々よりも 本質的に貪欲らしい。
その論理とは ーー 世俗的なものは死が取り上げてしまうから 蓄えてはいけない。
死が取り上げられないもの、徳 (punya)、霊的体験、クンダリーニの体験、瞑想 等々、死が取り上げられないものを蓄えよ、というものだ。

だが、蓄えれば恐怖がやってくる。
何を蓄えても蓄えただけ 恐怖がつき纏(まと)う、それであなたは恐れる。
蓄えなければ 恐れは消える。
世を捨てろと 昔ながらに教えているのではない。

私のサニヤスは まったく新しい考えに基づいている。
それは 俗世にいながら、俗世に 超然としていることを教えるものだ。
だから、いつだって あなたにはその用意ができる。


偉大な スーフィーの神秘家、アブラハム・アダムの 話を聞いたことがある。
かつて アブラハムは ブハラの皇帝だった。
後に、すべてを 抛(なげう)ってスーフィーの乞食になった。
もう一人の スーフィーの乞食と 一緒にいたときのこと、その男が絶えず自分の貧乏を嘆くので アブラハムは困った。

そしてアブラハムは 「そこまで嘆くのは、貧乏を安く買ったからじゃないかね」と 男に言った。
「ばかばかしい !」男は、アブラハムが かつて皇帝だったことも知らずに やり返した。
「貧乏が 買えると思うなんて、あんたは、本当に馬鹿だよ」。

アブラハムは答えた、
「私は、貧乏になるため 自分の王国を代償として支払った。
たった 一時でも貧乏になれるのなら、百の世界を 捨て値で売ってもいい。
貧乏の価値は 日増しに高まっている。
だから、お前さんが貧乏を嘆いている一方で、私がそれに感謝するとしても何の不思議もない」。


心の貧しさこそ 本当の貧しさだ。
sufi という言葉は アラビア語の safaに由来する。
safaは 清浄。
sufi は 心の清浄な人という意味だ。

では、清浄とは 何だろう ?
私の言うことを誤解してはならない。
清浄は、道徳とは 何の関係もない。
道徳的な解釈は してはならない。
清浄は、清教徒とは 何の関係もない。

それはただマインドが 汚れていない状態、意識以外に 何もない状態のことだ。
意識には 意識以外のものは入っていかないが、所有を熱望すると それがあなたを汚す。
金(きん)は 意識に入り込めない。
無理だ。
どうやって あなたの実存に入り込む ? 無理だ。
お金は 意識に入り込めない。
だが、持ちたいと思えば その所有欲が 意識に入り込む。
するとあなたは 清浄でなくなる。
何ものも 手にしようと思わなければ、恐れはなくなる。
すると、死でさえ、くぐり抜けるべき すばらしい体験となる。

真に霊的な人は 極めて多くの体験をするが、けっして蓄えない。
体験したら 忘れる、けっして未来に投影しない。
その体験を繰り返そう とか、もう一度体験してみようとか言わない。
それらを 請い願うこともない。
起こったことは 起こったこと、それで終わりだ !
霊的な人は それでお仕舞いにし、体験から離れていく。
常に新たなものを 受け入れる用意をし、古いものを持ち運ばない。

そしてもし、古いものを持ち運ばなければ、本当とは思えない 新しい生を見出すだろう ーー
生の それぞれの段階において、まったく新しい、信じられないほどの新しい生を。
生は 新しい。
古いのは マインドだけだ。
マインドを通して見るならば、生は繰り返しの 退屈なものに見える。
マインドを通して見なければ・・・。
マインドとは あなたの過去、体験や 知識、その他 諸々の蓄積。
マインドとは あなたが体験してきたもの、だがいまだに しがみついているもの。
残存物、鏡のような あなたの意識を覆う 過去の埃だ。
だから、マインドを通すと すべてが歪んで見える。
マインドは 歪める働きだ。
それを通さずに見れば、生は 永遠であることがわかる。
死ぬのは マインドだけ ーー マインドがなければ、あなたは 不死だ。
マインドがなければ 何一つ死ぬものはない。
生は 永遠に歩み続ける。
始まりも終わりもない。

蓄える、すると始まりが生じる。
そして、終わりがやって来る。

どうやって 自分の死に備えるか。
死に 備える といっても、最後に訪れる死への 備えのことを言っているのではない。
それは ずっと先のこと。
もしそれに 備えようというのであれば、準備は 未来のためのものとなり、またマインドが侵入してくる。

そうではない、私が備えよと言うのは 最後にやって来る死に対してではなく、息を吐く度に 訪れる死に対してだ。
一瞬 一瞬、この死を 受け入れてみなさい。
そうすれば、最後の死がやって来ても 備えができているだろう。

始めなさい、一瞬 一瞬、過去を捨て去ることを、一瞬 一瞬、過去から身を清めなさい。
未知のものが手に入るよう 既知のものを捨てなさい。
一瞬ごとに 死んで、一瞬ごとに 生まれ変われば、あなたは生を、そしてまた死を 生きることができるだろう。

強烈に 死を生きる、強烈に 生を生きる。
何も後に残らないほど、死すら 残らないほど 強烈に生と死を 生きる ーー これこそ 本当の霊性だ。
生と死を 全一に生きれば、あなたは 超越する。
そのように生と死を 途方もなく情熱的に 強烈に生きることで、あなたは 二元性、分裂を超越し、一なるものとなる。
一なるものこそ 本当の意味での真理だ。
それを 神と言っても、生命と言ってもいい、サマーディ、歓喜と言ってもいい。どの言葉を選んでも構わない。



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