saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死のアート」OSHO 第一章 生のあり方 (10)

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死という現象に、うっとりするくらいになるだろう。

ソクラテスは、死が迫ってきているというのに、とても うっとりしていた。
弟子たちは、なぜそれほど幸せそうにしているのか 理解できなかった。

弟子の一人、クリトンが尋ねた、
「どうして そんなに幸せそうにしているのですか。
私たちは泣き叫んでいるのですよ」。
ソクラテスは言った
「幸せでない理由がどこにある ? 私は 生を知った。
今度は 死を知りたいと思っている。
大いなる神秘を前にして、私は 胸が踊る。
未知のものへの、すばらしい旅に 出かけようとしているのだ。
わくわくして、もう待てない ! 」。

それに、忘れていけないのは、ソクラテスは宗教的な人間ではない、いかなる意味でも信仰の人ではない ということだ。

「あなたは、死後にも魂が残ると 確信しているのですか」と 誰かが尋ねた。
「わからない」と ソクラテスは答えた。

「わからない」ーーこの言葉を 口にするには、この世でも 最大の勇気を必要とする。
言葉の教師が「わからない」と言うのは 極めて困難なことだ。
オウムたちには 難しい。

ソクラテスは、とても誠実で 正直な人だった。
彼は 言った、「わからない」と。

すると弟子が 尋ねた、
「では なぜそんなに幸せそうなのですか。
魂が残らないとしたら ? 」。
ソクラテスは言った、
「確かめてみなくては。
もし残るとしたら、何も恐れることはない。
残らないとしても、恐れる必要があるだろうか。
残らないとしたら 私はいなくなる。 とすれば 恐れる必要などどこにあろう ?
そこには恐れる者が いないのだから、恐れの存在する余地はない。
残る とすれば 私は 残る、したがって恐れることはない。
だが、実際 何が起こるのか正確なことはわからない。
だからこそ私は 好奇心でいっぱいなのだし、喜んで 死に赴こうとしているのだ。
私には わからない 」


私にとっては、これこそが宗教的な人の あるべき姿だ。
宗教的な人とは、キリスト教徒でもヒンドゥー教徒でも仏教徒でも イスラム教徒でもない。
それらは 皆 知識の人だ。
キリスト教徒は「私は知っている」と言う。
だが それは、キリスト教の教義から 取ってきたもの。
ヒンドゥー教徒は「私も知っている」と言う。
だが それも、ヴェーダやギータ、ヒンドゥー教の 教義から取ってきたもの。
また、ヒンドゥー教徒キリスト教徒に反対する。
なぜなら、「私が 正しければ あなたは 正しくない。
あなたが 正しければ 私は 正しくない」と 言うからだ。
そのため、多くの議論、論争、言い争い、不要な闘いが起こる。

宗教的な人、俗にいう それではなく、真の意味で 宗教的な人とは「私にはわからない」と 言う人のことだ。
「わからない」と 言うとき、あなたは 開いており、学ぶ用意ができている。
「わからない」と 言うとき、あなたは ああだこうだという偏見も、信念も、知識も 一切持たない。
あるのは 気づきだけ。
あなたは、
「意識して 何が起こるか見ていよう。
過去から得た知識を携えないようにしよう 」と 言う。

これが弟子の、学びたい者の態度だ。
修行とは 学びに他ならない。
弟子とは 学ぶ人、学ぶ心がけの できている人のこと、そして修行とは学ぶことだ。
私が ここにいるのは、あなたたちに教義を与えるためではない。
私は、知識など 与えていない。
ありのままに 見られるよう、あなたの 力になろうとしているに過ぎない。
いくら高くつくとしても、自分の生を生きなさい。
それに 賭ける覚悟をしておきなさい。


あるビジネスマンの話だ。
昼食を取ろうと、会社を出て レストランに向かって歩いていたとき、見知らぬ男に 足を止められた。
男は言った、
「私のことは 覚えていないと思いますが、十年前、私は 一文無しになって この町にやって来たのです。
お金を貸してほしいと頼んだところ、あなたは 二十ドル下さいました。
あなたは 快く、一山 当てようとする者に 賭けてみようと おっしゃたのです 」
ビジネスマンは しばらく考えてから こう言った、
「ああ、思い出した。 あれから どうなったんだい ? 」
「そうですね。 まだ賭けてみる気はありますか 」


生は 何度も同じことを聞く ーー「まだ 賭けてみる気はありますか」と。
生には 何の保証もない。
それは 開かれたもの、大胆に、無秩序に開かれたものであるに過ぎない。
小さな家を建て、そこに見を置き 安全を確保することもできる。
だが 後に、それは あなたの墓場であることが明らかになるだろう。
だから、生と ともに 生きなさい。

しかし、私たちは そうしたことを 色々と し続けている。
愛は 生の一部だが、結婚は作り事だ。
あなたは、愛を 結婚という枠で囲み、安全を確保しようとする。
作れないものを 作ろうとする ーー 愛は 法律になり得ない。
あなたは できないことを しようとしている。
だが、そうやって愛がだめになったとしても 不思議ではない。

あなたは 夫に、愛する人は 妻になる。
二人は もはや人間ではなく、二つの役割だ。
夫には 夫の、妻には 妻の役割があって、二人はそれを果たさねばならない。
すると、生の 流れは止まり、凍りつく。

夫婦を見てみるがいい。
何をしているのかも、なぜそこにいるのかもわからず、凍りつき、寄り添っている二人の姿が、いつもそこにあるだろう。
おそらく、彼らは 行くべきところがないのだ。

愛し合う二人を見てみると、
何かが流れ、動き、変化している。
愛し合う二人は オーラに包まれて生きている、絶えず 分かちあっている。
互いの波動が、互いの存在が 相手に届いている。
二人の間に 壁はない。
二人でありながら 二人ではなく、一人でもある

寄り添っているとしても、夫婦の間には この上なく大きな隔たりがある。
夫には妻の言うことが 耳に入らない。
夫は とっくにつんぼになってしまった。
妻には、夫の身に起きていることが 目に入らない。
妻は 夫のことが見えなくなってしまった。
二人は完全に 無視し合う。
二人は 物、もはや人間ではない。
というのも、人間とは 常に開いた、常に不確かな、常に変化している存在だからだ。
二人は決まった 役割を果たす。
結婚した日に 彼らは死んだ。
それ以来、生きていない。

結婚するな と言っているのではない。
だが、肝心なのは 愛だということを忘れてはいけない。
愛が なくなれば、結婚も 無意味になる。

あらゆる事柄、生のあらゆる事柄についても 同様のことが言える。
生を 生きることもできる。
だが その場合、ためらいながら、次の瞬間 何が起こるかわからないという状況で、生きていかねばならない。
あるいは、あらゆる事柄を確かにして 生きることもできる。
何に対しても 確信を持っていて、全然驚かない人、驚かすことのできない人がいる。
だが私は、驚くべきことを伝えるために、ここにいるのだ。
あなたたちは信じないだろうし、信じられないだろうが、私は知っている。
まったく信じ難いこと ーー あなたたちが神や女神である ということ ーー を 伝えるために 私はここにいるのだ。
あなたたちは、そのことを忘れてしまった。


ちょっとした話を 一つ。

ハーヴェイ・ファイアーストーン、トーマスA・エジソン、ジョージ・バローズ、ヘンリー・フォードの 四人が、冬を過ごそうと フロリダへ向かい、途中、田舎の給油所に立ち寄った。
「ヘッドライトの電球が欲しいんだ」
「ついでに言っておくが、その車に座っているのが トーマス・エジソン、私はヘンリー・フォードだ」と フォードが言った。

給油所の店員は 顔すら上げず、馬鹿にした素振りを露(あらわ)にして、ペッと 煙草のせいで黄色くなった唾を吐いた。

「それから、ファイアーストーンのタイヤがあるなら 新品をもらいたい。
で、 あちらがファイアーストーンその人だ 」と フォードが言った。

それでも、年配の店員は 何も言わなかった。
店員が ホイールにタイヤを取りつけていると、白い顎鬚を生やした ジョーン・バローズが 窓から首を出し、「やあ、こんにちは」と 言った。

このときになって、給油所の男は キッと目を見開き、バローズを睨みつけて こう言った、「今度は サンタクロースだなんて 言って見やがれ、このスパナで 頭かち割ってやるからな」

店員は、ハーヴェイ・ファイアーストーン、トーマスA・エジソン、ジョージ・バローズ、ヘンリー・フォードが、一台の車に乗って 旅をしているとは 信じられなかったのだ。
彼らは 友人同士で、よく一緒に旅をした。


私が、あなたたちは 神や女神なのだ と言っても信じないだろう。
なぜなら、あなたたちの 内側で旅をしているのは誰か、内側に座っているのは 誰か、私の話を 聞いているのは誰か、私を見ているのは 誰か、完全に 忘れてしまったからだ。
あなたたちは 完全に忘れている。
あなたたちは、外部から 名前とか 宗教とか 国とかいう ラベルを貼られ、それらを 額面通りに受け取った。
だが、それらは 偽物だ !

自分自身を知らなければ、ヒンドゥー教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、そんなものに意味はない。
そうしたラベルも 何がしかの役には立つが、それ以外には何の意味もない。

ヒンドゥー教徒キリスト教徒、イスラム教徒、インド人、アメリカ人、中国人、そのことに 何の意味がある ?
どういう意味が、実在を知るうえで どう役に立つのだろうか。
どれも 無意味だ。
実在は インド人でも アメリカ人でもないし、ヒンドゥー教徒でも イスラム教徒でもない。
実在とは〈存在そのもの〉の ことだ。

その〈存在そのもの〉を私は 神と言う。
内なる聖性を知れば、生を知る。
知らなければ 生は解読できない。

あなたたちに伝えておく ーー 生の 一切は常に 一つのこと、あなたたちが 神である ということを指し示しているのだ。
ひとたび これを理解したなら、死はなくなる。
あなたたちは そのことを学ぶ。
それから、神々は死とともに 我が家に帰る。


ビルンハムが死の床に伏せていたとき、彼の妻が泣き崩れた。
ビルンハムは言った
「どうして泣くんだね ? 私は、いかに死ぬかを学ぶためにだけ生きてきたのだよ」


生のすべては・・・いかにして我が家へ帰るか、いかにして 死ぬか、いかにして 消えるか、その訓練に他ならない。

あなたが消えた途端、神があなたの中に現れるからだ。
あなたの存在は 神の不在であり、あなたの不在は 神の存在なのだ。


今日は これくらいにしよう。



第二章 失うものは何もない (01)へ 続く・・・