saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第十章 東洋と西洋を超えて (最初の質問)(02)

未来の人間は、東洋と西洋を 超えていかねばならない。
両方とも 半分に過ぎない、両方とも偏っている。
私は、東洋も 西洋も 支持しない。
私は 全一的な世界、全体である世界を 支持する。

だが ある意味で、アリカ、エスト、超越瞑想は 自然の成り行きだ ーー ある意味では。
というのも、凡人、凡庸なマインドは、いつも安易な方法や 近道を探そうとしているからだ。

本当のところ、人々は 究極の真理に 関心を持っていない。
関心があるのは、せいぜい便利で快適な生だ。
本当のところ、生き生きとした 冒険的な生には 関心がない。
いかなる冒険をも 心底 恐れている。
事がうまく運び、心地よく生き、心地よく死ねるよう、手はずを整えたがる。
真理ではなく、心地よさが ゴールらしい。

また、皆が皆、 偏見を持っている。
キリスト教徒、ヒンドゥー教徒イスラム教徒、 皆それぞれの偏見を持っている。
それらは 根深い。
愛のことは語れても、いつも 薄っぺらい。


ちょっとした話を あなたに。

取り乱した青年が、街なかにある ホテルの四十階の窓枠に立ち、飛び降りようとしていた。
警察は、数フィート低い 隣のビルの屋上まで行って、できる限り近づき、安全な場所に移るよう説得した。
しかし、 すべて 無駄だった。

一番近い教区の 司祭が呼ばれ、急いで現場にやって来た。
「息子よ、よく考えなさい」
「あなたを愛している お母さんや お父さんのことを 考えるのです」
司祭は 非常な愛を込めて、自殺しそうな 若者に言った。

「いや、母さんも父さんも 僕のことなんか愛していない。 僕は 飛び降りる」と 男は応えた。

「いけません。 やめなさい ! あなたを愛している女性のことを考えるのです」とその声に非常な愛を込めて 司祭は叫んだ。

「僕を愛している人なんか いやしない。 飛び降りる」という応えが返ってきた。

「いや、もっと考えるのです。 あなたを愛している イエスや マリアやヨセフのことを 考えるのです」と 司祭は嘆願した。

「イエス、マリア、ヨセフ ? 誰だい、そいつら ? 」と 男が応えた。

そこに至って、聖職者は怒鳴り返した、「飛び降りろ、ユダヤ人野郎が。 飛び降りるんだ ! 」


どんな愛も、たちまちにして 消える。
愛についての話は 皆、薄っぺらい。
寛容についての話の底には、不寛容がある。

人は、「互いに寛容でありなさい」と言う。
「互いに寛容でありなさい」と言うとき、この言葉は 何を意味するのだろうか。
もとより 不寛容である ということだ。
その「寛容」という 言葉自体が 醜い。
誰かに 寛容であろうとするとき、あなたは その人を愛しているのだろうか。

ヒンドゥー教徒イスラム教徒に 寛容であろうとするとき、彼らはイスラム教徒を 愛しているのだろうか。
イスラム教徒が ヒンドゥー教徒に 寛容であろうとするとき、彼らは ヒンドゥー教徒を 愛しているのだろうか。
寛容は 愛になり得るだろうか。
政治には なるだろうが、それは 宗教ではない。

男性 ー 女性、東洋 ー 西洋、善 ー 悪、天国 ー 地獄、夏 ー 冬、 あらゆる極性を越えた 真理を知りたいと 思う者、あらゆる 二元性を越えた真理、それを知ることに、その探求に興味を持つ者は、あらゆる偏見を 落とさなくてはならない。

偏見を依然として持ち歩けば、マインドは その偏見に染まる。
真理を 知るのに、ヒンドゥー教徒になる必要はない、イスラム教徒になる必要はない。
キリスト教徒になる必要はない、ユダヤ人になる 必要はない。

真理を知るには、こうしたゴミを すっかり落とし、あなた自身に ならなければならない。
インド人、アメリカ人、イギリス人、日本人、中国人になる必要はない。

真理を知るには、大きく、広く、活力に満ち、生き生きとし、愛に 溢れ、探求し、瞑想的に ならなくてはいけない ーー 偏見も、聖典も、観念も、哲学も 持たずに。

あなたが 今まで教わってきたことを 完全に捨てたとき、あらゆる条件づけを去ったとき、不意に 最高の真理が 現れる。


最高の真理は、それ自体が 総合だ。
だから、総合する必要はない。
それは 有機的な統一だ。

あなたは その高みから、宗教、寛容、愛、教会、寺院、モスクの名において続けられている あらゆるナンセンスを、笑うことができる。



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