saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死のアート」OSHO 第一章 生のあり方 (09)

f:id:saleem:20220209102741j:plain

(・・・また、人が瞑想について語っていることも無意味だ。)

昔、私は ジャイナ教の聖者が瞑想について書いた本に出会った。
実にすばらしい本だったが、著者自身、瞑想したことがないと思われるところが ほんの数か所あった ーー したことがあるなら、そうした記述はないはずだ。
だが、そういう部分は極わずかで、全体としてみれば、ほぼ九十九パーセントは 申し分なかった。
私はその本が好きだった。

その後、私はその本のことを忘れて、十年間、 私は 国中を歩き回っていた。

ラジャスタンの村にいたとき、その聖者が 私のところにやって来た。
名前に聞き覚えがあって、突然私は その本のことを思い出した。

それで私は、なぜ私のところに来たのか尋ねてみた。

聖者は、「瞑想のことが知りたくてな」と言った。
私は、「あなたの本のことを覚えています。 本当に感動したものですから、よく覚えているのですよ。
あなたが瞑想したことがないと思われる点が 二、 三 あって、それが欠点ですが、それ以外は完璧、九十九パーセント正しいのです ーー なのに、今こうして聞きに来るとは。
あなたは瞑想したことがあるのですか」と 言った。


聖者は少し戸惑いの色を見せた。
弟子たちもそこにいたからだ。
「素直に言ってください。 瞑想を知っている というのなら、話をするつもりはありません。 知っているならそれまで、話す必要はないでしょう。
素直に、瞑想したことがないと、せめて 一度だけでも本当のことを 言ってくれない限り、あなたを瞑想の方へ導いてあげることはできません」。

それは交換条件だった。
だから 告白せざるを得なかった。
聖者は、「あぁ、瞑想したことはない。 誰にも言ったことはないのだがな。
わしは多くの瞑想の本を読んだし、古い経典も残らず読んだ。
そして人々に教えてきた。だから今、弟子たちを前にして困っている。
多くの人に瞑想を教え、瞑想の本を書いてきたが、瞑想を したことがないのだ 」と 言った。


瞑想についての本は書けても、瞑想のある空間には出会わない。
言葉に熟達することも、抽象的、知的議論に熟達することもできる。
そのうえ、そうした営為にかかずらっている時間が まったくの無駄であることさえ、すっかり忘れていられる。

私は、「どれくらい瞑想に興味を持っているのですか」と老人に尋ねた。
「生涯 ずっとだ」と 老人は答えた。

もうすぐ七十歳になるところだった。
「わしは 二十歳のときにサニヤスを受け、ジャイナ教の僧侶になった。
それから五十年、瞑想の本を読み漁り、瞑想のことを考え続けてきた」。

五十年も 瞑想のことを考え、本を読み、本を書き、瞑想の指導までして、一度も 瞑想を味わったことがない というのだ !

だがこれは、極めて多くの人にあてはまる。
人は 愛について語る、愛の詩(うた) なら一つ残らず知っている、けれども 一度も愛したことがない。
愛の中にいる と思っているときでさえ、そうではない。

それもまた 頭に属すことであって、心に属すことではない。

人々は生きてはいる、だが 生き損ねている。
生には 勇気が、真に現実的であるには 勇気がいる。
生の 赴くままに、生と ともに動いてゆくには勇気がいる。
なぜなら、生の道は 未知であり、地図など 存在しないからだ。
未知のものへと 入っていかねばならないからだ。

未知のものに 入っていく覚悟ができているときのみ、生は理解され得る。

既知のものに しがみつけば、マインドに しがみつく羽目になる。
だが、マインドは 生ではない。
生は 全体であり、精神的なものでも 知的なものでもない。

生に対して、全体的に関わっていかねばならないのであって、生について 考えるだけでは だめなのだ。
生について 考えることは、生ではない。
この「〜 について 病 」には気をつけること。
人は「〜について」考え続ける。

神に ついて、生に ついて、愛に ついて、あれこれについて、いろいろ考える人がいる。


ムラ・ナスルディンは、ずいぶんと 年を取った。
それで、医者に見てもらいにいった。
相当 弱っているようなので、医者は こう言った、「一つだけ言えるのは、性生活を半分にしなければならんということです」
ムラは 言った
「わかった。 でも、性生活の何を半分にすればいいんだ。
話をかい、それとも考えることかい」


それでお仕舞いだ。
言葉の教師に なってはいけない、オウムになっては いけない。
オウムは 言葉の教師、言葉、観念、理論に生きる。
だが、生は素通りし、手から こぼれ落ち続ける。
そして ある日突然、オウムたちは 死を恐れだす。

死を 恐れる人がいたら、その人は 生き損ねてきたのだと知っておきなさい。
そうでないなら、死の恐怖など あるはずがない。
生を 生きてきたのなら、死をも 生きる覚悟ができているだろう。

死という現象に、うっとりするくらいになるだろう。



(10)へ 続く