saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死のアート」OSHO 第一章 生のあり方 (08)

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・・・新しい間違いができる人は、常に成長し続ける。
それが 唯一の学びの道、自分の 内なる光へと至る道だ。


こんな話を聞いたことがある。

ある晩、キルマンにすむ イスラム教徒の 大詩人アウハディーが、縁側に座り 身をかがめて器を覗き込んでいた。
スーフィーの偉大な神秘家シャムス・イ・タブリーズが たまたまそこを通りかかった。
詩人の行動がタブリーズの目にとまり、彼は、「何をしているのだね ? 」と 詩人に尋ねた。
詩人は、「鉢に映る 月に瞑想しているのです」と答えた。

タブリーズは大声で 狂ったように笑い出した。

詩人は 気分を害した。
近くにいた連中も集まってきていた。
詩人が言った、「なんですか。 なぜそんなに笑うのですか。 なぜ馬鹿にするのですか 」
タブリーズは言った、「首が折れているのならともかく、そうでなかったら 空の月を直接見ればいいではないか 」


月は そこにある、満月が そこに。

だがこの詩人は、水の入った鉢の傍らに腰を下ろし、鉢を覗き込んでいる。

経典に 真理を求めたり、哲学に真理を求めたりするのは、月影を見ることだ。
誰かほかの人に 自分の生き方を尋ねるとすれば、それは間違った助言を求めるということだ。
その人は自分自身の生のことしか語れないのだから。

絶対に、絶対に二つの生は 同じではない。
他人が語ったり、教えたりできるのは 本人の生以外にない ーーそれも その人が 生を生きていればの話だ。

他人から聞いたのかもしれない、他人の真似をしているのかもしれない。
その人自身、模倣者なのかもしれない。
と なると、それは 写しのまた写しだ。

幾世紀にも渡って、人々は 写しの写しのそのまた写しを写し続けている。

本物の月は いつも空にあって、あなたを待っているのだが。
それは あなたの月、あなたの空だ、直(じか) に見ればいい。
今すぐに。
どうして私や 人の目を借りるんだね ?
あなたには目が、すばらしい目が あるじゃないか。
見なさい、直に。
どうして人の理解を借用しようとするんだね ?
私にとっては理解かもしれない、だが借用した途端、あなたにとっては 知識となる、もはや理解ではない ーーこのことを 忘れないように。

自分自身で体験して、はじめて理解となる。

私が月を見れば 私にとっては理解だろうが、あなたに語った瞬間、理解でなく 知識となる。
すると、それは言葉の上だけの、言語的なものに過ぎなくなる。
だが、言葉は 一つの虚偽なのだ。


ちょっとした話を 一つ。

養鶏をしている農夫が、鶏の産む卵の数に満足できず、雌鳥たちに少しばかりの 心理操作をしてやろうと考えた。
そこで、派手な色をした おしゃべりオウムを買ってきて鶏小屋に入れた。

案の定、雌鳥たちは忽ちハンサムな訪問者が気に入り、コッコッと嬉しそうに鳴きながら、餌の一番おいしそうなところを オウムに勧めるのだった。
そして、新たに登場した 人気歌手を追いかける十代の女のコたちのように、多くの雌鳥がオウムについて回った。
雌鳥が産む 卵の数まで増えて、農夫は喜んだ。

当然、小屋にいた雄鶏は、雌鳥たちに無視されてはなるものかと、魅力的な侵入者に攻撃を仕掛けた。
嘴(くちばし)と 爪で、オウムの 青や赤の羽を 一本ずつ次々と引き抜いていった。
それで、脅されたオウムは 恐れをなして叫んだ、「やめてください ! 」
「お願いです、やめてください。
所詮、僕は言葉の教師としてここにいるだけなのですから 」


多くの人々が、言葉の教師として 自らの生を送っている。
それは 最も偽りに満ちた生だ。
真実に言葉はいらない、言葉を超えた次元において 真実は与えられる。

月はそこにある、鉢も水もいらない。
何の媒体も いらない。
ただ 見ればいい。

それは 非言語的 交流だ。
生のすべてが 与えられている。
言葉なしに、それと交わる方法を学ぶだけでいい。

それが瞑想の意味するところのすべてだ ーー 言葉が邪魔をしない空間、あなたと真実の間に、身につけた観念が割り込まない空間に入ること。

女性を愛したら、恋愛について誰かが どうこう言っても、妨げになってしまうから 聞いてはいけない。
その女性を愛する、愛はそこにある。
愛について学んだことは すべて忘れなさい。
キンゼイ、マスターズ・アンド・ジョンソン、フロイトユング、そういう人たちのことは全部忘れなさい。
言葉の教師に ならないでほしい。

ただ 愛し、愛を育み、愛の導くままに 愛の秘奥、愛の神秘へと向かうのだ。
そうすれば、愛を 知ることができるだろう。

また、人が 瞑想について語っていることも無意味だ。


(09)へ 続く