saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死のアート」OSHO 第一章 生のあり方 (02)

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完全な生の瞬間に達するたびに、突然 あなたの前に、死が姿を現すだろう。
愛するときに それは起こる。
愛の中で 生は極点に達する。
だから人々は 愛を恐れる。


私のところに やって来る人たちが 愛するのが恐いと言うのを聞いて、私はいつも驚いている。
どうして愛を恐れるのだろう ?
人を 本当に愛すると、自我がすべり落ち溶けてしまうからだ。
自我を持ったまま 愛することはできない。
自我は障害になる。
けれども、それを取り除きたい と思うと 自我はこう言う、「死んでしまうぞ
気をつけろ !」と。

自我の死は、あなたの死ではない。
それは、真の意味で あなたの生を可能にするものだ。
自我は、あなたを覆う 命のない硬い殻に過ぎない。
壊し、投げ捨てなければならない。

自我は ひとりでに生まれてくるーーちょうど、旅人が歩けば 服や体に埃がつくように。
だから、旅人は 風呂に入って 埃を落とさなくてはならない。


私たちが動くと、経験や知識、生活や過去の埃が集まって自我となる。
集まると、あなたを覆う、壊して捨て去るべき 硬い殻となる。
この殻に 囚われないよう、人はいつも、毎日毎日ーー実を言えば 一瞬一瞬、風呂に入らなければならない。
生は 愛において頂点に達する、だから自我は 愛を恐れる。
が、頂点に達した生のあるところ、必ず 死の頂点がある。
それらは相伴う。


愛の中で あなたは死に、蘇る。
瞑想や 祈りのとき、あるいは 師(マスター)のところへ来て 明け渡すときにも、同様のことが生じる。
自我は 明け渡すことのないように、ありとあらゆる邪魔立てや 説得を試みる。
「考えろ。 よーく考えろ。 賢くなるんだ」。
あなたが 師のところへ行くと、例によって自我は 疑い深く猜疑的になり、不安の種をまく。
なぜなら、あなたは ふたたび生の方へ、炎の方へ来ているのだが、そこには同じく 死もまた存在するからだ。


死と生は、一緒に燃え上がるということを覚えておきなさい。
その二つは 絶対に離れない。
もし、生が ごくごく小さな最小のものであれば、生と死は 別々に見える。
頂点に近づくにつれ、二つは接近していく。
極点において それらは出会い、一つとなる。
愛、瞑想、信頼、祈りの中で 生は完全になる。
生が完全であるところ、常に死がある。
死が なければ、生は完全なものにならない。

ところが、自我は 常に分離、二分して考える。
すべてを 分かつ。

存在は分離不能、分けることなどできない。
あなたは子供だった、それから青年になった。
あなたが青年になったときを線引き できるだろうか。
突然 子供でなくなり、青年になったときを 特定できるだろうか。
いつの日か、あなたは 年を取る。
その年老いる日を 特定できるだろうか。

過程というものは 線引きされ得ない。
人が 生まれるときもそうだ。
生まれるときを線引きできるだろうか。
生は実際 いつ始まるのか。
子供が 息をし始めるとき、医者が子供を叩き 子供が息をし始めるときか。
そのときに生は始まるのか。
あるいは子供が子宮に入ったとき、母親が妊娠したとき、子供を孕んだときか。
そのときに生は始まるのか。
それとも もっと前なのか。
生が始まる 正確な時期はいつなのだろう ?


生とは、終わりもはじめもない 一つの過程だ。
生は 決して始まらない。
人は いつ死ぬのか。
息が止まったときだろうか。
今では、息を止めたままでも生き長らえ、戻って来られることが多くの ヨギによって証明されているし、その科学的な裏づけもとられている。
だから、息が止まったときが 終わりとは言えない。
生は どこで終わるのだろう ?

生はどこでも 終わらないし、どこでも始まらない。
私たちは永遠性の中にいる。
私たちは 始まりのときからずっと ここにいる ーー 始まり というものがあったらの話だが。
そして 終わりのときまで、ずっと ここに いるだろう ーー 終わり というものがあったらの話だが。
実のところ、いかなる始まりも 終わりも あり得ない。
形、体、マインドが 変わろうとも、私たちは 生なのだ。
だが、私たちが「生」と 呼んでいるのは特定の 肉体やマインドや 感情と 同一視されたもの、そして「死」と 呼んでいるのは、その形や肉体や 観念から 出ていくことに他ならない。

あなたは 家を変える。
もし 一つの家に自分を同一化しすぎていれば、家を変えるのは とても苦痛になるだろう。
あなたは 古い家 だった。
だからあなたは 自分が死んでいくと考える。
その家が あなた自身だった。
だが、そんなことにはならない。
あなたは 家を変えるのだけだと知っている。
あなたは 同じままだ。

自分自身の 内側を覗いた者、自分が 何であるか理解した者は、永遠の 終わりなき過程を知る。
生は 時間のない、時を超えた 過程、死は その一部だ。

死は 絶え間のない復活だ。
死は、生が何度も 蘇るのを助け、古い形態や 老骨化したビルや、あなたを閉じ込めている 古い建物を捨て去るのを助け、あなたが ふたたび流れ、ふたたび若々しく、ふたたび 清らかになれるようにする。


聞いた話だが・・・
ある男が、ヴァーノン山の近くにある骨董屋で 品物を眺めていた。
そして、かなり古そうな斧を目にした。
「古くて凄い斧がありますね」、 男は店の主人に言った。
「ええ、かつては ジョージ・ワシントンが持ち主だったんですよ」と 主人は答えた。
「本当ですか。 それにしても、ずいぶん持ちがいいですねぇ」と 客が言った。
「当然ですとも。 柄を 三回、頭を 二回 新しいのに取り替えてますから」と 主人は言った。


だが、それが 生のあり様だ。
柄と 頭を 取り替え続ける。
実際、すべてが 変わり続けているように見える。
しかし、それでも 変わらないものがある。
ちょっと 見てみよう。
あなたは 子供だった。
以来、今でも残っているのは 何だろう ?

記憶だけだ。

体も、マインドも、あなたが 自分だと思っていたものも 変わってしまった。
子供のころの何が 残っている ?
何も 残ってはいない。
記憶だけだ。

それが本当に起きたことなのか、夢を見ていたのか、本で読んだことなのか、それとも誰かが あなたに語って聞かせたことなのか、あなたには 定かでない。
その少年時代は あなたのそれだったのか、他人のそれだったのか。

たまには古い写真でも見るといい。
さあ、見てごらん、これがあなただった。
あなたには 信じられないだろう。
こんなにも 変わってしまったからだ。
事実、すべてが 変わった。
柄も 頭も 何もかも。
だがそれでも、どこか奥深く、ずっと変わらずに 続いているものがある ーー 目撃している ことだ。

目には 見えないが、一本の糸がある。
あらゆるものが 変わり続けていても、この 見えない糸は 変わらない。
それは 生死を超えている。
生と死は、生死を超えたものの 両翼だ。

その超えたものは、生と死を 荷車の両輪とし、互いに補い合わせて 使い続ける。
それは 生を介し、死を介して生きる。
生と死は その過程、呼気と吸気の ようなものだ。

あなたの中にある 何ものかが生死を超えている。
それすなわち 汝なり・・・ 超えたるもの。


(03)へ 続く