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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死のアート」OSHO 第一章 生のあり方 (01)

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第一章 生のあり方

ラビ (ユダヤ教の聖職者) のビルンハムが死の床に伏せていたとき、彼の妻が泣き崩れた
ビルンハムは言った
「どうして泣くんだね。 私は、いかに死ぬかを学ぶためだけに生きてきたのだよ」



生は生きることの中にある。
それは物ではない。
それは 過程だ。
生きること、生きていること、生と ともに流れること、これ以外、生に達する方法はない。
生の意味を、教義とか哲学とか 神学に求めようとすれば、生も生の意味も 掴み損ねてしまうのは確実だ。

生が どこかにあって、そこで生が あなたを待ち受けているわけではない。
それは あなたの内部で起こっている。
到達すべき目標として 未来にあるのではなく、今ここに、まさに この瞬間に、呼吸や流れる血液や 心臓の鼓動の中にこそ、生はある。
あなたが 何であれ、それがあなたの生だ。
だから、それ以外のところに 生の意味を求めようとすれば、生を 取り逃がす。
人は 幾世紀にも渡って、そのようなことをし続けてきた。

観念、解釈が非常に重視され、真実の方は すっかり忘れられている。
私たちは、すでにここにあるものを見ずに、合理的な説明を求める。

とてもすばらしい話を聞いたことがある。

数年前、ある成功したアメリカ人が、自分を見失ってしまうほどの深刻な状況に陥った。
精神科医に 救いを求めてみたものの、何も得ることは できなかった。
人生の意味を知りたかったのだが、教えてくれる者は誰一人いなかったからだ。
しばらくして、人を寄せつけぬヒマラヤの奥地に住む 高徳にして稀に見る知恵を持つ導師(グル) のことを知った。
生の意味と、生において 自分の果たすべき役割を 教えてくれるのはその導師しかいない、彼はそう確信するようになった。
そこで、この世で築いた全財産を売り払い 全知の導師を捜し始めた。
八年間、村から村へと ヒマラヤ中をさまよい歩き、懸命に導師を捜し回った。
そして ある日、偶然 一人の羊飼いに出会い その導師の居場所と行き方を教えてもらった。

一年ばかり かかったが、ついに捜し出し 導師と出会った。
導師は いかにも徳が高く、優に百歳は超えていた。
ここへ来るために 払った数々の犠牲のことを知った導師は、男を 助けてやることにした。
「息子よ、わしに どうしてほしいのだ」、 導師は尋ねた。
「生の意味を 是非とも知りたいのです」、 男は答えた。
躊躇なく 導師は答えた、「生とは 果てのない川だ」
「果てのない川 ? 」と男は びっくりして言った。
「わざわざ こうして あなたを探しに来たというのに。
生とは果てのない川、教えてくれるのは それだけですか」

導師は ぎくりとした。
とても腹が立ってきて、「違うとでもいうのか」と言った。


あなたの 生の意味を あなたに教えられる人はいない。
それは あなたの生だ。
その意味も あなた自身のものでなくてはならない。
ヒマラヤに行っても無駄。
あなた以外に それと出会う者はない
それは あなたの生だ。
あなた以外に近づける者はない。
生きることによってのみ、その秘密は明かされるだろう。

最初に言っておきたいのは、生の意味を 自分以外のところに求めてはならないということだ。
私に求めないこと。
聖典や 巧みな言説にも 求めないことーーそれらは言葉巧みに説明するが、本当の説明にはならない。
あなたの 空っぽの頭を満たすだけで、存在するものを気づかせはしない。
頭に 死んだ知識が 詰まれば詰まるほど、鈍感で愚かになる。
知識は人を 愚かにし、感覚を鈍くする。
詰め込まれると、重荷になる。
自我(エゴ) を強くはしても、人に 光を与えたり 道を示したりはしない。
それは 不可能だ。


生は すでに、あなたの内側で湧き上がっている。
そこでしか、生に触れることはできない。
寺院は 外にはない。
あなたが聖地だ。
生の 何たるかを知りたければ、何よりも まず覚えておくべきことがある。
決して外部に求めない、他人から答えを引き出そうとしないことだ。
生の意味を他人が明かすことはできない。
極めて偉大な師(マスター) たちは、決して生の意味を口にせず、いつも その人自身に生の意味を投げ返した。

二番目に覚えておくべきことは、いったん生を知れば 死をも知る、ということだ。
普通 私たちは、“ 死は 生の終わりにやって来る、死は生に対立する、死は 敵だ ” と 考える。
だが、敵ではない。
もし 敵と考えているのであれば、生を知り得ずにいることを 暴露しているに過ぎない。

死と生は 同じエネルギーの、同じ現象の両極ーー 満ち潮と引き潮、昼と夜、夏と冬だ。
死と生は、別々のものでも 反対のものでも、対立するものでもない。
それらは補い合っている。
死は生の終わりではない。
実のところ、それは 一つの 生の完成、クライマックス、最終局面だ。
いったん 生とその過程がわかれば、死が何であるかもわかる。

死は 生を構成する不可欠のものであり、生とは極めて親密な関係にある。
それなしに 生はあり得ない。
死あっての生、死はその存在基盤だ。
実を言うと、死は再生の過程であり、一瞬一瞬に 起こっている。
息を吸う、息を吐く、そのとき生と死が起こる。
吸うときには 生が、吐くときには 死が。
だからこそ、生まれた子供が 最初にするのは 息を吸うことなのだ。
それから 生が始まる。
また老人が 死を迎えるとき、最後にするのは 息を吐くことだ。
それから生は離れていく。
呼気は 死、吸気は 生、生と死は 荷車の車輪のようなもの。
生は 呼気にも吸気にも支えられている。
呼気は 吸気の一環だ。
息を吐き出すのをやめたら 息は吸えない。
死ぬことをやめたら 生きることはできない。
生を理解した者は、死を受け入れ歓迎する。
その人は 一瞬一瞬に死んで、一瞬一瞬に蘇る。
十字架と復活が 一つの過程として絶えず起こっている。
一瞬一瞬 過去に対して 死に、何度も何度も 未来に蘇る。
生を調べてみれば、死が 何であるかわかるだろう。
死が理解できて、はじめて生は理解される。
生と死は 有機的に統一されている。
だが、通常、私たちは 恐れからそれらを分離する。
生は 良いもの、死は 悪いものと考える。
生を 望むべきもの、死を忌むべきものとみなし、何とか死から自分を守ろうとする。
この馬鹿げた考えのため、私たちの生に止めどなく惨めなことが起こっている。
というのも、死から 自分を守ろうとする者は、生きることができなくなるからだ。
息を 吐き出すのを恐れる者は、息が吸えず 凝り固まってしまう。
そうなったら、引きずられるしかない。
生は 流れなくなる。
生は 川でなくなる。


本当に生きたければ、死ぬ用意をしなければならない。
あなたの中で 死を恐れているのは誰なのか ?
生が死を 恐れているのだろうか。
それは あり得ない。
生が自らの 統一的過程を恐れるはずはない。
別の何かが 恐れているのだ。
あなたの自我(エゴ) だ。
生と死が 反対なのではない、反対なのは 自我と死だ。
生と死が反対なのではない、反対なのは 自我と生だ。
自我は 生にも死にも対立する。
自我は 生も死も 恐れる。
生きることを恐れるのは、生に向かおうと努力するたびに、一歩近づくたびに、死にも 近づくことになるからだ。

生きれば、死に近づいていく。
自我は死を恐れる、それゆえ生をも恐れる。自我は ひたすらあなたを引き止める。

生きても死んでもいない人々が大勢いるが、これは何より悪い。
生に溢れている人は、死にも溢れている。
それが十字架にかけられたイエスの意味するものだ。
十字架を背負ったイエスの意味、それは 実際には理解されてこなかった。
エスは弟子たちに言った、「お前たちは、自分の十字架を背負っていなければならない」。
その意味は極めて単純だ。
誰もが皆、絶えず死を背負っていなければならない、一瞬一瞬死ななければならない、そうするのが十全、完全に生きる唯一の道だ、ということに他ならない。

完全な生の瞬間に達するたびに、突然 あなたの前に、死が姿を現すだろう。
愛するときに それは起こる。
愛の中で 生は極点に達する。
だから人々は 愛を恐れる。


(02)へ 続く