saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第5話 ーーー 〈無〉の香り (13)

…( 自我(エゴ)が はいってくるのに 七つの扉がある
そこから我々が 自我(エゴ)を 身につける 七つのドアだ
それらの扉を 理解する必要がある )

なぜならば,もし それらを理解すれば
あなたは自我(エゴ)を 落とすことができるだろうからだ
というのも
それが 完全に よく理解されたならば
それらの扉は 閉ざされ得るからだ
そしたら,自我(エゴ)は もうつくられない

自我(エゴ)というのは ただの影にすぎないと 正しく見抜かれたとき
それは ひとりでに消え失せはじめる


最初の扉を アルポートは “肉体的自己” と呼ぶ
我々は 自己という感覚を持って 生まれはしない
母親の 子宮の中にいる子供に 自己という感覚はない
彼は 母親と ひとつだ
つながっている
橋渡しされている
そして,母親こそが 彼の全存在なのだ
彼の 宇宙なのだ

彼は自分が 別々だということを 知りはしない
分離は その子供が 子宮から 出てくるとき
彼の母親との 橋が絶たれて
その子供が 自分で息を しなければならなくなるときに やって来る
実際のところ
呼吸というのは,何か その子が やるつもりになっていることじゃない

どうして それができるのか ? ーーー

彼は まだ息をすることさえできない
つまり,彼は まだそこには いないのだ
呼吸は 起 こ る
それは その子供が それをやっている というのじゃない
それは ひとつのハプニングなのだ
それは〈無〉から 出てくる
その数秒間は とてもとても 貴重だ
重大だ
危険だ
両親,お医者さん,看護婦さんたち
お産の世話をしている人たちは みな手に汗を握って 待っている
その子が 息をするかどうか ? ーーー


その子は強制されるわけにもいかない
その子は説得されるわけにもいかない
そして,その子は 自分では何ひとつできるわけじゃない
もし それが起こるとすれば それは起こるだろう
それは 起こらないかもしれない
それは 起こるかもしれない
ときには子どもたちは けっして息をしない
そうしたとき,我々はそれを死産だと見なす


子供は最初の ひと息を どうやって呼吸するのか ? ーーー
それは 奇跡的だ
彼は それまで一度も そんなことをしたことがない
彼は その用意をできるわけでもない
彼は 呼吸するメカニズムが存在することも 知りやしない
肺はそれまで 一度も機能したことがない
だが,呼吸はやって来て
その奇跡が はじまる
しかし,その呼吸は〈無〉から やって来ているのだ
覚えておきなさい
あとになると あなたは
「自分が 呼吸しているのだ」と 言いはじめるだろう
それは 馬鹿げている
あなたが呼吸しているんじゃない !

呼吸が 起 こ っ て いるのだ
「自分」という 観念を つくり出さないこと
「自分が呼吸をしているんだ」などと 言わないこと
誰も 呼吸してなんかいない
それを やるかどうかというのは あなたの力の及ぶ範囲じゃない

試してみてもいい
数秒間 息を止めてごらん
そうしたら,止める というのも難しいということが わかるだろう
何秒も たたないうちに
どこからともなく 大変な波が 押し寄せて
あなたは ふたたび息を しはじめる
あるいは また,外側から 息をさせないようにしてもいい
何秒間か やってごらん
すると突然,大きな衝動が 襲ってくる
それは あなたを越えたものだ
呼吸が はいって来たがっている
あなたの中で息をしているのは〈無〉なのだ
あるいは それを 神と呼んでもいい
どう呼ぼうと 変わりはない
それは 同じものだ
無か 神か ーーー
その二つは 同じものを意味する
仏教において〈無〉というのは
キリスト教ユダヤ教ヒンドゥー教で〈神〉というのと まさしく同じものを意味する
神は ひとつの無なのだ


我々は〈自己〉という感覚を持って 生まれてきはしない
それは我々の 遺伝学的資産の 一部じゃない



(13)終わり・・・(14)へ 続く