saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死のアート」OSHO 第一章 生のあり方 (05)

f:id:saleem:20220207091009j:plain

(…死は美しい。 だが、美しいのは、制約や抑圧のない生を送った人の死だけだ。 美しく生きた人、生きることを恐れなかった人、つまり、愛した人、踊った人、祝った人の死だけだ。)


生が 祝祭となれば、死は 究極の祝祭となる。
こう言っておこう。
生がどんなものであるにせよ、死は それを曝け出す、と。

あなたが 惨めに生きていれば、死は その惨めさを露わにする。
死は見事に暴露する。
幸せに生きていれば、その幸せを露わにする。
肉体的な 慰めや喜びだけに生きていれば、当然、死は非常に不快で嫌なものになる。
肉体から 去らなければならないのだから。
肉体は、夜 泊まって 朝には立ち去る仮の宿、社(やしろ)に過ぎない。
永遠の住まいでも、あなたの家でもない。

だから、肉体的な生を送るにとどまり、肉体を超えたものを何一つ知らない人の死は、極めて醜く不快で苦しい。
死は 苦しみとなる。
だが、肉体よりも 少し高度な生を送るなら、音楽や詩を愛したり、人を愛したり、肉体的でない何かが 意識の中に入ってきているなら、死は それほど悪くも苦しいものでもない。
あなたは従容(しょうよう)として 死を受け入れられる。
だが、死はまだ祝祭ではない。

自己の内にある 超越的なものに触れるなら、中心にある自己の空(くう) ーー 存在の中心、もはや 肉体でもマインドでもないところ、肉体の喜びから完全に離れ、音楽や詩や文学や 絵画など、あらゆる精神的な喜びからも 遠く離れたところ、まさしく あなたが純粋な気づき、意識であるところ ーー へ入るなら、死は 大いなる祝祭、大いなる理解、大いなる啓示となる。

その〈超えたるもの〉を 知るならば、死は 宇宙の〈超えたるもの〉を明かすだろう。
そうなれば、もう 死は死でなく、神との出会い、神とのデートだ。


だから死は、人間精神の変還に応じて 三つに表される。
一つは、肉体に執着する普通の人間の死だ。
普通の人は、食べ物と セックスの喜びより すばらしいものを 何一つ知らない。
その生は、食べ物とセックス以外の 何ものでもない。
食べ物を楽しみ、セックスを楽しむ、非常に原始的で粗野な生だ。
普通の人は 王宮の入り口に住むが、決して中に 入ることがない。
そして それが生のすべてだと考えている。
死を迎えるとき、彼らは執着するだろう。
死を拒み、死と 闘うだろう。
死は 敵として現れる。
ゆえに世界中で、あらゆる社会で、死は 暗く呪わしいものとして描かれてきた。
インドでは、死の死者は とても醜く、薄暗く、陰鬱で、巨大な醜い野牛に乗ってやって来る と言われている。
これが死に対する 一般の態度だ。
こうした人々は、生を 取り逃がしている。
生の 全次元にまで 認識が及ばず、生の深みに触れることも、生の高みに飛ぶこともできずにいる。
完全なもの、祝祭を手にできずにいる。


それから、死の第二の表現がある。
時折、詩人や哲学者は、死は 別に悪いものでも 呪われたものでもなく、安らぎを与えてくれるもの、大きな 休息、眠りのようなものだと言う。

これは最初のよりも良い。
少なくとも、肉体を超えた精神的なものを知っている。
食べ物とセックスに留まっていないし、その生は 食べ物と 生殖に限られていない。
少しは高尚な 魂を持っているし、より上品で文化的だ。
彼らは 死を 大きな休息みたいなものだと言う。
人は疲れ、死と 休息に向かう。
死は 安らぎを与える。
だが、詩人や 哲学者も真理から 遠く隔たっている。

生の 最奥の核を知る者は、死は 神である と言う。
それは、休息のみならず 再生、新たな生、新たな始まりでもある ーー 新しい扉が 開く。


スーフィーの神秘家、バヤズィッドが 死を迎えようとしていたとき、周りに集まった弟子たちは 突然のことに驚いた。
というのは、最後の瞬間、バヤズィッドの顔が強く輝いたからだ。
美しい オーラだった。

バヤズィッドは美しかったし、弟子たちは いつもそのオーラを感じていた。
だが、こんなことは 初めてだった、とても強く 輝いていたのだ。

弟子たちは尋ねた、「バヤズィッド、何が起こったのか教えてください。 どうしたのですか。 去っていく前に、最後に 一言おっしゃってください」

バヤズィッドは目を開いて言った、「神が私を迎えてくださる。 私は神の抱擁を受けに行く。 さらば だ」

彼は 目を閉じた。
息が止まった。
だが、息が止まったとき 光の爆発が起こり、部屋は光に満たされた。
それから 光は 消えた。

自己の内にある 超えたるものを知ると、死は 神の別の顔でしかなくなる。
すると、死の中に 神への踊りが生まれる。
覚えておきなさい、死自体を 祝えるようにならなければ、あなたは 生き損なう。
生のすべては、この究極のものへの準備なのだ。


これが このすばらしい話の意味だ。

ラビのビルンハムが死の床に伏せていたとき、彼の妻が泣き崩れた。
ビルンハムは言った。
「どうして泣くんだね。 私は、いかに死ぬかを学ぶためだけに生きてきたのだよ」


ビルンハムの全人生は、死の秘密を学ぶための 準備に他ならなかった。
宗教はすべて、いかに死ぬかを 教える科学、あるいは技法に過ぎない。
そして、いかに死ぬかを教えるには、いかに生きるかを 教える以外にない。
それらは 別々のことではない。
正しい 生き方を知れば、正しい死に方をも知る。
だから、一番大事な、最も 基本的なことは、いかに 生きるか だ。


二、 三、言っておきたいことがある。
まず、あなたの生は あなたの生である ということ。
それは 他の誰のものでもない。
だから、自分を他人に 支配させてはならない。
他人に支配させてはならない、それは 生への裏切りだ。
両親、 社会、 政治家、 聖職者、誰であれ 他人の支配を許せば、
あなたは 生き損なう。
生は 内にあるが、支配は外から来るからだ。
それらは 絶対に出会わない。

いちいち、何にでも ノーと言うようになれ と言っているのではない。
そういうのもあまり意味がない。
人間には 二つのタイプがある。
一つは、従順で 何にでも誰にでも 服從しようとするタイプ。

彼らには 自立した精神が全くない。
未熟で 子供っぽく、父親的人物、何をすべきか すべきでないか言ってくれる人を いつも捜している。
自己の実存を 信頼できない人たちだが、そういう人は 世の中の多数を占める ーー 大衆だ。

それから、そうした人々とは 反対に、社会や 社会的価値を拒絶する 少数派がいる。
彼らは 自分たちを 反逆者だと思っている。
だが、そうではない、ただの 反対者に過ぎない。
というのも、従うにしろ 逆らうにしろ、社会が 支配的なものとして あり続けているならば、社会に 支配されていることに 変わりはないからだ。



(06)へ 続く