saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「〈彼方〉から 」 (06)

(…記憶は あなたの 記録 だ
あなたは その記録を見ている 当の者だ、記憶 そのものでは ない )


何かを 思い出そうと 緊張しすぎたら
それを思い出すが むつかしくなる ということが しばしば起こる
なぜなら あなたの存在の上に かかるその緊張、その圧力は
記憶が 情報を あなたに放出することを 許さないからだ
あなたは何度も ある人の名前を 思い出そうとするが、それは 出てこない

それはもう 舌の先まで 出かかっていると言うのにーーー

あなたは 知っていることは知っている
それでも その名前が 出てこない

さて これは 不思議だ
もしあなたが 記憶だとしたら、 あなたを邪魔しているのは 誰か ?

どうして 名前が 出て来ないのか ?

そして「私は 知っている、なのに それが出てこない」と 言う この者は誰か ?

そうして あなたは がんばろうとする
がんばろうと すればするほど、ますます それは むつかしくなる

それから、ことの全体に うんざりして あなたは庭に散歩に出る
すると、バラの茂みを ながめているとき、突然 その名前が そこにある
それが 浮かび上がる


あなたの記憶は あなたではない
あなたは 意識だ
記憶は その意識の 中身だ

しかし記憶が 自我 (エゴ)の 生命エネルギーの すべてだ

記憶は もちろん 古い
それは 新しいものを おそれている

新しいものは 妨害するかもしれない
新しいものは 消化できないほど やっかいなものかもしれない
新しいものは 何か問題を 起こすかもしれない
あなたは自分を転換し、再転換しなければならない
あなたは自分を 再調整しなければならない
それは 骨が折れるようにみえる


新しくなるためには、人は 自我(エゴ)と自分を 同一視しないようにする必要がある

ひとたび 自我 (エゴ) との 同一視を 断ったら、あなたはそれが 死ぬか生きるか 気にしない

実際のところ
あなたは それが 生きようと死のうと、すでに死んだも同然だと 知っている

それは ひとつの メカニズムだ

それを 使いなさい
しかし それに 使われないことだ

自我 (エゴ)は たえず 死を おそれている
なぜなら それは 根拠のないもの だからだ
それゆえの 恐怖 ーーー

自我(エゴ)は 存在からは 起こらない
それは 存在から起こることは できない
なぜなら 存在は 生 だからだ
どうして 生が 死を おそれることが できよう ?

生は まったく 死を 知らない

自我(エゴ)は 根拠のないものから 生じる
人工的なもの、どうにか 組み合わされたもの、偽りのもの、似非(えせ)なるものから 生じる

それでも、人間を 生き生きとさせるには
ただ その レットゴー、ただ その死だ
自我(エゴ)において死ぬ ということは 存在のなかへ、神のなかへ 誕生する ということだ

新しいものは 神からの 使者だ
新しいものは 神からの メッセージだ
それは 福音だ

新しいものに 耳を傾けなさい
新しいものと 共に進みなさい

私は あなたが おそれていることを知っている
その恐怖を ものともせず、新しいものと 共に 進みなさい
そうすれば あなたの生は ますます豊かになる
そして ある日、閉じこめられた光輝を 放つことができるようになる



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