saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第5話 ーーー 〈無〉の香り (11)

…( 愛というのは 何か “実行に移される” ようなものじゃない
生は 実行に移されることなど必要としない
生は 生きられるべきものなのだ )

全き 無垢の中でーーー

生というのは ドラマじゃない
あなたは 準備する 必要なんかない
あなたはそのための下稽古など する必要はない
それが 来るように来させなさい
そして,自然でいるのだ

だが,もしそこに 自我(エゴ)が あったら
どうして 自然でいることができる ?

自我(エゴ) というのは 大役者だ
自我(エゴ) というのは 大政治家だ
自我(エゴ) は あなたを 操作し続ける
自我(エゴ)は 言う

「もし お前さんが 本当に洗練されたやり方で 行為したかったら
下稽古を しなくちゃ駄目だ」

自我(エゴ) というのは演技屋だ
そして,この演技屋のせいで
あなたは 生のよろこびを
その お祝いを
その祝福を のがし続けてゆく


仏陀は 言う
行為が無から 出てくるとき
それは 何のカルマも つくらない,と

そうしたとき,それは本当に トータルで
まさに そのトータリティーが その行為を ひとつの円として 完結させてしまう
お終い !
あなたは 二度と 振り返らない

なぜ あなたは 振り返ってばかりいるのか ?

それは 物事が そこで未完結になっているからだ

いつであれ 何かが 完結しているとき
あなたは 振り返ったりしない
それは 終わっている
もう 終点だ
それについて なすべきことは もう何もない
〈無〉から 行為してごらん
あなたの行為は トータルだ
そして,トータルな行為というのは 何の記憶も残さないものだ
私の言うのは 何の 心理的記憶も,という意味だがね


脳に 記憶は 残る
だが,そこには何の 心理的 引っかかりもない
そして,何の引っかかりも持たない人間こそ
私の サンニャーシンの 定義なのだ


その行為が 完結しているとき
あなたは それから 自由になる
その行為が トータルなとき
あなたは それ から 抜け出す
ちょうど ヘビが古い皮から抜け出して
その古い皮は 置き去りにされるようにーーー
ただ未完結な行為だけが カルマとなる
それを 覚えておきなさい
ただし,完結した行為をするには
それは〈無〉から出てきたものでなければならない


覚醒には 三つのレベルがある
自己の 覚醒
世界の 覚醒
そして
自己と世界の間に介在する 幻想の覚醒ーーー



(11)終わり・・・(12)へ 続く