saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第5話 ーーー 〈無〉の香り (12)

…( 覚醒には 三つのレベルがある
自己の 覚醒
世界の 覚醒
そして
自己と世界の間に介在する 幻想の覚醒ーーー )

フリッツ・パールズは この中間に介在するレベルを DMZ
武装化地帯( Demilitarized Zone )と 呼んだ
そして,それは 我々が
自分自身や 自分の世界と全面的に接触するのを 妨げる働きをする
DMZは 我々の偏見

つまり,それを通して我々が 世界や ほかの人たちや 自分自身を見る 先入観を含んでいる

もし世界を 我々の先入観を通して 見たら
我々は その真実を見抜くことなど できはしない
我々は 在 る そ の も の を 見ることができない
我々は ひとつの幻覚を つくり出してしまう
それが ヒンドゥー教徒たちの呼ぶ マーヤ(maya) だ


もし判定をもって
ア-プリオリな偏見をもって 外側を見たら
我々は 自分自身の世界を つくり出してしまう
それが マーヤ,幻覚だ
ひとつの 投影ーーー
もし こうした判定や 知識や 意見を通して 我々自身を見たら
我々は もう ひとつの 幻覚をつくり出している
自我(エゴ)だ
そうしたら
我々の内側に どんなリアリティーがあるのか 見ることなどできない
我々は 外に何があるのか わからないし
内に何があるのかも わからない

外側を 見失ったとき
我々は マーヤという幻覚をつくり出す
内側を 見失ったとき
我々は自我(エゴ),“アハンカール (ahamkar)” を つくり出す
そして,それらは 両方とも DMZ
武装化地帯を 通じて 起こるのだ


グルジェフは このゾーンを 緩衝地帯と呼んでいた
DMZというのは それにふさわしい,うってつけの名前だ
そのDMZが 大きければ大きいほど
その人は より病的で より神経症的だ
DMZが 小さければ小さいほど
その人は より健康で心理学的に正常だ と言える

そして,そのDMZが 完全に消え失せて
あなたと世界との間に 何の思考も介在しないとき
ーーーただひとつの思考もだよーーー
それが仏陀の言う〈無〉なのだ
そうしたとき,その人は まったく正常だ
真正だ
全体だ


経文に はいる前に
この 自我(エゴ) というものについていくつかーーー

まず この“自己(self)” という幻覚が 理解されなくてはならない


ひとつ
自我(エゴ) というのは リアリティーじゃない
それは ただの 観念だ
あなたが 世界に やって来るとき
あなたは それを 持って来はしない
あなたは それを 自分自身と一緒に たずさえては来ない
それは あなたの 実存の一部ではないのだ

子供が 生まれるとき
彼は 自我(エゴ)を世界に 持ち込みはしない
自我(エゴ) というのは 何か彼が学ぶものなのだ
それは 遺伝の一部じゃない


ゴードン・アルポートは 自己を “プロプリウム (proprium)” と呼ぶ
そしてそれは 形容詞形の “専有の(propriate)” を考えることによって定義され得る
あるいは “専有する(appropriate)” という言葉でもわかる
“プロプリウム” というのは その人に属する
あるいは その人に独特な何かを 示している
自己が つくり出されるのは
ひとつひとつの〈無〉が ユニークだからだ
それぞれの〈無〉には それなりの 花開き方がある
このユニークさのために
自我(エゴ)を つくり出してしまう可能性が出てくる


私は 私の愛し方をする
あなたは あなた自身の愛し方をする
私は 私の振舞い方をする
あなたは あなた自身の振舞い方をする
人々の間には 違いがある
だが,ただの違いに すぎない

バラの花は ひとつの咲き方をする
そしてマリーゴールドは また別な咲き方をする
けれども,両方とも 花開くのだ !
その開花は 同じ
その〈無〉は 同じなのだ
けれども,それぞれの〈無〉は ユニークな機能のしかたをする
このために自我(エゴ)をつくり出す可能性が出てくる


自我(エゴ)が はいってくるのに 七つの扉がある
そこから我々が 自我(エゴ)を 身につける 七つのドアだ
それらの扉を 理解する必要がある



(12)終わり・・・(13)へ 続く