saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 超越するものと一体になる (01)

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盲目となっていたラビのブナムが
ある日、ラビのフィシェルを訪ねた
奇跡によって病を治すというので、フィシェルは
国中に名を知られていた

「お任せください、私が治しますから。 必ず光を取り戻してあげます」
とフィシェルが言った

「その必要はありません。 私には見るべきものが見えるのです」
とブナムは答えた




霊性にとって 問題なのは、徳ではない。
問題なのは ヴィジョンだ。

霊性は 徳の実践ではない。
なぜなら、徳を実践しても 徳ではなくなるからだ。

積まれた徳は 死物、死の重みだ。

徳が 徳であるのは、意図的にではなく 自然に、内発的に なされたもの、ヴィジョン、気づき、理解から なされたものに 限られる。


一般に、宗教は 実践だと 考えられている。
が、そうではない。

それは、宗教に対する 最も根本的な誤解の一つだ。

非暴力は 実践できるが、ヴィジョンの変わっていない あなたは依然として暴力的だ。

あなたは まだ 古い目を持ち歩いている。

貪欲な人が 分かち与えることはできるが、貪欲さは そのままだ。
分かちでさえ、貪欲さのために 穢れてしまう。

自分の理解に反して、理解を超えて 実践することなどできないからだ。

原理 原則が 自分の体験から 出てきたものでなければ、生を従わせることはできない。


宗教的と言われる人々は、徳を積もうとする。
しかし それこそ、この世で最も 徳のない人々と言われる所以なのだ。

彼らは 愛を実践しようとする。
だが、 この世で 最も 愛のない人々だ。

戦争、憎しみ、怒り、敵意、殺人、ありとあらゆる過ちを 犯してきた。
彼らは 友愛を 実践する。
だが、 この世に 友愛の花が咲いたためしはない。

彼らは神について 語り続ける。

だが、 神の名を語りつつ、さらなる戦いを引き起こしている。

キリスト教徒は イスラム教徒に敵対し、イスラム教徒は ヒンドゥー教徒に敵対し、ヒンドゥー教徒ジャイナ教徒に敵対し、ジャイナ教徒は 仏教徒に敵対する。
やっているのは、そんなことばかりだ。


三百もの宗教が あるが、どれも人間の マインドを ばらばらにするだけで、統合する力には なっていない。
そうした宗教のせいで、人間は 病み、狂ってしまった。

狂気は、ある一つのことから 生まれる。
そのことは できるだけ深く 理解しなければならない。
あなたも 誤った方向に進みかねないからだ。



(01)終わり・・・(02)へ 続く