saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第16章「意志か、 明け渡しか」最初の質問(02)


f:id:saleem:20230203153531j:image

最初の質問(02)

( 意識は、あなたと ともに誕生している。

思考は 身につけたもの、人為的なものだ )

 

だから、あなたは ヒンドゥー教徒の思考を持てるし、イスラム教徒の思考や、キリスト教徒の 思考を持てる。

が、キリスト教徒の 魂は持てないし ヒンドゥー教徒の魂も持てない。

魂は ただ魂 −−− 意識は意識だ。

マインドには タイプがある。

あなたは、ある特定の マインドを持っている。

その特定のマインドは あなたの 育てられ方、条件付け、教育、文化によって 養われる。

マインドとは、何であれ 外側から あなたに インプットされたものだ。

 

そして 目撃とは、何であれ外側からインプットされたものではなく、あなたの内に 本来そなわっているもの、自然なもの という意味だ。

それは あなたの 本性だ。

 

マインドは 一種の副産物であり、習慣だ。

 

目撃すること、意識、気づき、どんな言い方でもいい。

それは あなたの 本性だ。

だが、あなたは あまりにも多くの習慣を 身につけていて、その本性が まったく表面下に潜っている状態だ。

 

あなたは 自己の本性を、完全に忘れている。

だから本当は、宗教は 本性を現すために 

マインドの 習慣と闘うことに、その働きがある。

宗教は 自然なるもの −−− 本来のもの、真実のあなたを あからさまにする。

 

そこで、最初に 心に留めておくべきなのは 

目撃することと 考えることは、異なる状態だということ。

考えることは、マインドからであり 

目撃は、あなたの 本性からのものだ。

 

あなたは 両方を 同時にすることはできない。

あなたの意識を そこにあらしめるには 

マインドは 停止しなければならない。

あなたの 真実の本性を そこにあらしめるには 思考が 停止しなければならない。

だから、思想家と 光明を得た人間は まったく違う。

 

ブッダは 思想家ではない。

ヘーゲルや カントは思想家だ。

彼らは ある特定の結論に至るために マインドを使った。

ブッダは 何かの結論のために マインドを使っていない。

実際、 彼は ノーマインドの状態だった。

彼は マインドを使うことを 止めてしまった。

彼は 何かの結論に至るのに マインドではなく自分自身を使う。

あなたは マインドを使って 結論に至れる。

だが、あらゆる結論は 仮定的なものであり 理論上のものだ。

なぜなら、一つの思考は 別の思考を 生じさせるからだ。

が、思考は事実を 生み出すことはできない。

思考は 真実を生み出すことはできない。

 

目撃することを通して、あなたは 事実に至る −−− 

結論と してではなく、仮定論としてではなく 直接に、即時的な事実として。

 

 

(02)終わり(03)へ 続く