(18)
( 観照する本性、観照する意識とは、達成されなければならないものではない。
あなたは それを すでに持っている。
さもなければ、「それはあなたの本性だ」とは言えない )
子供が生まれるとする。
もしその子に 言葉を教えなければ、その子は どんな言葉も わからない。
それは 本性ではない −−− それは 養われたものだ。
もし何も 教わらなければ、彼は 何も知らないだろう。
もしヒンドゥー教を 教えられれば ヒンドゥー教徒になるだろう。
何であれ 彼は、教えられた ものに なるだろう。
それは 本性ではない。
誰も ヒンドゥー教徒として 生まれた者は いない。
誰も イスラム教徒として 生まれた者はいない。
それらは 本性ではない −−− それらは 条件付けだ。
あなたは ある一つのパターンに 条件付けられるよう無理強いされた。
ヒンドゥー教とは 一つの習い性であり、本性ではない。
イスラム教もまた 一つの習い性であって、本性ではない。
私が「習い性」と言うのは、教えられたもの、学習されたもの の ことだ。
あなたは、それとともに 生まれてきたわけではない。
観ること は、そうしたものではない。
あなたは、それとともに生まれた。
もちろん、それは 隠されている。
あなたの実存の、最も奥深いところに 種としてある。
観ること を除いては、全てが 後から教えられることだ。
知識は 教えられるが、知る ことは 教えられない。
子供は 知ることと ともに生まれるのであり
知識と ともに 生まれるのではない。
彼には 知る能力が ある −−− だから、彼は 教わることができる −−− が、その能力は 彼のものだ。
あなたは 彼を 条件付けし続ける。
多くのことが 教えられる。
そして、彼は多くのことを 学んでいく −−− 言葉、宗教、主義、彼は それらで 重くなってしまう。
そして もっと重たくなり、もっと経験を積み
もっと多くの マインドを持つだろう。
そして社会は そのことを評価し、尊重する。
マインドは 社会において 尊重される。
それは 社会の産物だからだ。
だから、いつであれ聡明なマインドが存在する時 −−− それは、知識を貯め込む能力に秀でた者 という意味だ。
社会はそれを評価し、尊重する。
社会に生み出されたマインドは そこにある。
そして、そのマインドは どんどん成長していくだろう。
あなたは そのマインドと、重たくなったマインドと 一緒に、自分が 誕生とともに携えてきた 内なる本性を知らずに 死んでしまう。
観る こと、それに向かう努力とは、そのマインドを壊し、そのマインドに 割れ目を作り、そこから のぞき込んで、本性を −−− あなたの本性を探る という意味だ。
(18)終わり(19)へ 続く