saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(18)

(18)

( 観照する本性、観照する意識とは、達成されなければならないものではない。

あなたは それを すでに持っている。

さもなければ、「それはあなたの本性だ」とは言えない )

 

子供が生まれるとする。

もしその子に 言葉を教えなければ、その子は どんな言葉も わからない。

それは 本性ではない −−− それは 養われたものだ。

もし何も 教わらなければ、彼は 何も知らないだろう。

 

もしヒンドゥー教を 教えられれば ヒンドゥー教徒になるだろう。

もし共産主義を教えられれば、共産主義者になるだろう。

何であれ 彼は、教えられた ものに なるだろう。

 

それは 本性ではない。

誰も ヒンドゥー教徒として 生まれた者は いない。

誰も イスラム教徒として 生まれた者はいない。

それらは 本性ではない −−− それらは 条件付けだ。

あなたは ある一つのパターンに 条件付けられるよう無理強いされた。

 

ヒンドゥー教とは 一つの習い性であり、本性ではない。

イスラム教もまた 一つの習い性であって、本性ではない。

私が「習い性」と言うのは、教えられたもの、学習されたもの の ことだ。

あなたは、それとともに 生まれてきたわけではない。

観ること は、そうしたものではない。

あなたは、それとともに生まれた。

もちろん、それは 隠されている。

あなたの実存の、最も奥深いところに 種としてある。

観ること を除いては、全てが 後から教えられることだ。

 

知識は 教えられるが、知る ことは 教えられない。

子供は 知ることと ともに生まれるのであり 

知識と ともに 生まれるのではない。

 

彼には 知る能力が ある −−− だから、彼は 教わることができる −−− が、その能力は 彼のものだ。

あなたは 彼を 条件付けし続ける。

多くのことが 教えられる。

そして、彼は多くのことを 学んでいく −−− 言葉、宗教、主義、彼は それらで 重くなってしまう。

そして もっと重たくなり、もっと経験を積み 

もっと多くの マインドを持つだろう。

そして社会は そのことを評価し、尊重する。

 

マインドは 社会において 尊重される。

それは 社会の産物だからだ。

だから、いつであれ聡明なマインドが存在する時 −−− それは、知識を貯め込む能力に秀でた者 という意味だ。

社会はそれを評価し、尊重する。

社会に生み出されたマインドは そこにある。

そして、そのマインドは どんどん成長していくだろう。

 

あなたは そのマインドと、重たくなったマインドと 一緒に、自分が 誕生とともに携えてきた 内なる本性を知らずに 死んでしまう。

 

観る こと、それに向かう努力とは、そのマインドを壊し、そのマインドに 割れ目を作り、そこから のぞき込んで、本性を −−− あなたの本性を探る という意味だ。

 

 

(18)終わり(19)へ 続く