saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(19)

(19)

( 観る こと、それに向かう努力とは、そのマインドを壊し、そのマインドに 割れ目を作り、そこから のぞき込んで、本性を −−− あなたの本性を探る という意味だ )

 

あなたは、未知なる 観照のエネルギーとして 生まれた。

それなのに 社会は衣で、 あなたの周りを覆ってしまった。

その衣が あなたのマインドだ。

もしあなたが その衣と 自己同化したら、本当の自分、いつも そうであった自分を 決して知ることはないだろう。

人は 自分が誰かを知らずに 死ぬ。

その可能性はある。 が、ある意味で、それにはそれなりの 美しさもある。

 

社会を、内側から放り出すことだ。

社会から 自由であるべきだ。

私が 社会から自由であるべきと言うのは 

外側の社会から 自由である という 意味ではない。

それはできない。

あなたが どこへ行こうとも、外の社会は そこにある。

たとえ森へ 行ったとしても 木々や動物が あなたの社会になるだろう。

僧侶、隠者が 森の中に入り、動物たちと暮らし始めると、あなた方は「何て すばらしいんだろう !」と 言う。

が、彼は またしても社会を 作り出している。

隠者が森に住み、木々と話しはじめると、あなたた方は

「何て宗教的な人だろう !」と 言う。

が 実際は、彼は またしても社会を作り出している。

 

外の世界に関する限り、

あなたは、社会なしでは 生きていけない。

あなたは 社会の中に存在している ! 

が、あなたは あなたの内側の社会を放り出すことができる。

内側では、社会から自由に なれるのだ。

外側の社会から 自由であろうと 試みれば、まったく無駄な努力になる。 彼らは 無駄骨を折った −−− 

それは 成功しなかった。

そして 彼らは、自分自身を欺いている。

 

本当の問題は、外側の社会から いかに抜け出すか ではなく、内側で いかに社会に煩わされずにいるかだ。

もし思考がなければ、もし記憶がなければ、もし過去の体験から来る煩いが なければ、あなたは内側で 社会から自由になる。

あなたは 清らかで、純粋で、無垢だ。

あなたは 生まれ変わる。

そうしたら、あなたは 自己の本性が 何であるか、自己の道(タオ)を、自己の法(ダンマ)を 知る。

 

ダンマ という言葉は、何度も何度も「宗教」という言葉に訳されている。 本当は、 そうではない。

ダンマとは 宗教という意味ではない。

ダンマとは、本性 という意味だ。

ダンマとは、あなたが すでに そうであるところのもの −−− あなたの本質 という意味だ。

 

二つの言葉は 理解するのに役立つ。

グルジェフは それらの 二つの言葉を使っていた −−− 「本質」と「人格」。

本質というのは あなたの本性だ。

人格は 作られたもの、あなたに与えられた 社会的 精神構築だ。

 

我々は みな、人格だ。

そして、本質に 気づいていない。

まったく 気づいていない状況にある。

この経文が言う「観照の質」とは、本質のことだ −−− 

本質としての あなただ。

だから、観る とは、あなたが達成すべき何かではない。

それは 達成されるものではない。

むしろ 一つの発見であり、覆いを 剥ぎ取るということだ。

そこに あなたが忘れていた 何かが ある −−− 

それを、あなたが あからさまにする ということだ。

 

だから グルジェフは決して 

観照」という言葉を 使わなかった。

それよりも、彼は「想起」という言葉を使った。

 

 

(19)終わり(20)へ 続く