(20)
( だから グルジェフは決して
「観照」という言葉を 使わなかった。
それよりも、彼は「想起」という言葉を使った )
カビール、ナナク、彼らも また「想起」−−− スラティ −−−という言葉を使った。
スラティとは 思い出すという意味だ。
スラティは スムリティだ −−− 想起だ。
ナナク、カビール、グルジェフ、彼らは「想起」という言葉を使っていた。
その唯一の 理由は、あなたの本質は、本当は 達成されるべき 新しいものではない、と 言いたかったからだ。
それは、もうすでに そこにある。
ただ、それを 思い出すだけだ。
もうすでに現存しているものに、ただ 気づくだけだ。
だが、もしあなたが 思考でいっぱいに なっていたら、思考の群れの中に埋まっていたら、気づけないだろう。
青空は そこにある −−− だが、雲が、真っ黒い雲が いっぱいに広がっていれば、あなたには空が みえない。
雲がやって来るのは、ただの偶然だ。
それらは 今存在し、以前にはなかった。
そして、それらは再び 存在しないだろう。
それらは やって来ては、去っていく。
そして、青空は いつもそこにある。
その青空が アクシャットだ。
どんな雲も その青空を 汚すことはできない。
青空は清らかで、純粋で、無垢なままだ。
どんな雲も、青空を 汚すことはできない。
雲は やって来ては、去っていく。
が、青空は常住だ −−− かき乱されず、触れられずに。
ただ 内なるスペース、内なる青空が そこにある。
それがあなたの 本性だ。
社会は やって来ては、去っていく。
あなたは 生まれ、死んでいく。
数 多く 生まれ、そして死んでいく。
多くの多くの雲が、あなたを通り過ぎていく。
が、内なる空は 汚されることなく、清らかなままだ。
が、 あなたは 雲に 自己同化する。
あなたは「私は雲だ」と 感じ始める。
誰もが、雲にすぎない 自分自身の思考に自己同化する。
そしてあなたは「私の考え」と言う。
もし誰かが、あなたの考えを 攻撃してきたら、自分の 考えが攻撃された とは 決して感じないで、自分が攻撃された と 感じる。
すると、空が戦っていることになる −−− 雲のために戦っている。
というのも、ある雲が攻撃されているからだ。
そして、空は「私は攻撃された」と 感じる。
そこに 雲が なかった時、青空が あった。
そこに 雲がなければ、青空があるだろう。 雲は青空に 何も加えない。
そして 雲が もうそこになくても、何も 失なわれない。
それは 完全に、それ自体で あり続ける。
それが 本性だ −−− 内なる 空、内なる スペース。
人は、観ることで それを明らかにし、発見する。
観ることは 根本的で、本質的だ。
そして 観ることは、無数の 技法のなかで使われる。
それは センタリングのための方法であり、観照のための方法だ。
(20)終わり・・・(21/終回)へ 続く