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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(21)

(21/終回)

( 中国の道教の伝統に、太極拳として知られる技法がある。

それは センタリングのための方法であり、観照のための方法だ )

 

それらは、あなたが 何を している時でも 

へそに意識を集中させたままで いなさいと言う。

歩きながら、意識を へそに集中させる。

食べながら、意識を へそに集中させる。

戦いながら、意識を へそに集中させる。

何を していようと、ひとつのことを 意識したままでいる。

それが、へそに 意識を集中させることだ。

また、もし意識を へそに集中させていれば 考えることは できない。

あなたが 考え始めた 瞬間、へそを 意識しなくなる。

これは 身体の技法だ。

 

ブッダは 呼吸、息を 使った。

道士たちは、腹を 使った。

彼らは それを 丹田という。

だから、日本式の自殺は 腹切りとして知られている。

それは 腹に意識を集中したまま 自殺することだ −−− 

だが、それは 自殺ではない。

それは ただの自殺ではない。

間断なく、腹に意識を集中したままで 自殺した場合にだけ、彼らは それを腹切りと 言った。

そうすれば、それは まったく自殺ではない −−− その人は、実に 意識的に それをしている。

あなたは、それほど意識的に 自殺はできない。

あなた方の場合、自殺するのは、心が ひどく動揺して、まったく無意識になった場合だけだ。

腹を 使おうが、息を 使おうが とにかく 意識を保ったままでなければならない。

 

クリシュナムルティは 言った。

「自分の 思考のプロセスを意識したままで いなさい」

それが 呼吸のプロセスだろうが、腹の 動きだろうが、思考のプロセスだろうが 違いはない。

根本は 同じだ。

自分の 思考のプロセスを意識したままでいること。

一つの思考が 湧き上がって来る。

そのとき、湧き上がって来るのを、知りなさい。

一つの思考が そこにある。

そのとき、そこに 思考がある と 知りなさい。

思考が 動き、なくなるのを 知る。

思考が 消え去っていくのを 観ていなさい。

一つの思考が 消えると、決まって 別の思考が やって来る。

そして、その間には ギャップが ある。

そのギャップを 意識していなさい。

思考のプロセスを 意識したままでいる −−− 

一つの思考が 動き、そこに ギャップが でき また 思考がやって来る。

それを 意識していなさい ! 

思考を あなたの観照の 対象に使いなさい。

観ることに 違いはない。

あなたは、息を 観照の対象に 使うことができる。

思考を 観照の対象に 使うことができる。

腹を 観照の対象に 使うことができる −−− 何でも 観照の対象に 使える。

 

意識を 目覚めさせるには、多くの方法がある。

それぞれの国で、独自の方法が 編み出されてきた。

時々、その方法のことで、大変な諍いになることがある −−− だが 深く見つめると、本質的なことは ひとつだ。

それが 観る ことだ −−− それが どんな方法であろうと その違いは 外郭の違いにすぎない。

 

クリシュナムルティは 言った。

「私には意識を目覚めさせる方法はない」と。

しかし、彼には 手法がある。

この 思考のプロセスを 観照することは 呼吸を観照するのと同様に 一つの方法だ。

 

あなたは呼吸を 観照できる。

思考のプロセスを 観照できる。

とするなら、もし誰かが 数珠を使い、それを 観照できるのなら、あなたは それを高く評価できる。

数珠の動きを 観照しようが、呼吸あるいは思考のプロセスを観照しようが、その間に 違いはない。

 

スーフィーたちは 舞踏を、旋回舞踏を 手法として 使っている。

彼らは 舞踏を 手法として使っている。

あなたは旋回舞踏(ワーリング・ダービッシュ)という言葉を 聞いたことがあるかもしれない。

彼らは時々、子供がするように 踵で回って踊る。

もし あなたが 同じように回れば 気持ちが悪くなってしまうだろう −−−

ただ踵だけで回る、旋回するのだ。

そして、彼らは 言う。

「旋回し続けなさい。

身体が回っていることを 認知していなさい。

そして、意識したままでいなさい。

内側で、意識を保っているのだ !

旋回している 身体に自己同化してはならない。

身体は回っている。それに自己同化してはならない。

意識したままでいなさい。 そうすれば、観照が起こるだろう」と。

 

そして、スーフィーの手法は 

他のどんな手法よりも 急激な手法だと、私は 思う。

 

思考のプロセスを観照することは 難しい。

それは とても微妙だ。

呼吸を観照するのも また難しい。

呼吸は 自分の意志で行なうものではないからだ。

だが 旋回は、自らの意志で行なうことだ。

舞踏、ぐるぐると旋回することで 

マインドは 朦朧と なってくる。

もし あなたが その状況で 気づきを保っていれば、突如として中心を 見い出す。

その時、身体は 一つの車輪になり、あなたは その中心になる。

身体は 回り続け、中心は ひとりそのまま、触れられずにある −−− アクシャット −−− 汚されていない。

というように、何百もの 手法がある。

だが それらすべての中での真髄、大切なこと、本質、根本的なことは、 観る ことだ。

 

この経文曰く

『あなたが自己の内側を、 観照の質を持って 観照しない限り、あなたの行為は 徒労に終わる』

 

研がれていない、そのままの米では用をなさない。

それなら 買える。 それはただの象徴、象徴的なことだ。

何か 社会に磨かれていないもの、触れられず、造り上げられていないものを、あなた自身の本性から もたらさない限り、あなたの礼拝は まったく愚かだ。

それは 馬鹿げている。

あなたは 延々と礼拝し続けることができる。

それらが 意味するものを 知らずに その象徴を 使い続けられる。

 

アクシャット −−− 汚されていない、新鮮な、清らかな −−− という言葉を 覚えておきなさい。

あなたの中の、清らかなもの とは 一体 何か ? 

それを 見つけなさい。 それを 神の御足に供えなさい。

その清らかなるものだけが 使うことができる −−− 

唯一 その処女性、その新鮮さ、常なる若々しさだけが、礼拝のために使われる。

 

あなたは、観る ということを、頭では 理解できる。

それは難しいことではない。 が、それは 難しい ! 

もしあなたが 観ることを 頭で理解し、それは たいしたことではない と思うのなら −−− それは難しい。

あなたは 理解できる。

するとまたしても、それは マインドの中の理論になる。

またもや、マインドの中の思考になる。

またしても、それはあなたの 記憶の蓄積の 一部になる。

あなたは 観ることについて 議論できる。

あなたは それを哲学化できる。

が、それは まだマインドの 一部だ −−− 清らかではない。

 

もし私が 観ることについて 何か言えば、それは あなたのマインドの中に入り、あなたの マインドの一部になる。

だが、それは あなたのものではない。

それは 外から やって来た。

あなたが ウパニシャッドを読み、ウパニシャッドに 感銘を受け、そうだ と思って、内側で自分に「そうだ、 その通りだ」と 言ったとすれば、それは一つの理論になった ということだ。

 

それは あなたからのものではない。

それは 外から 来たものだ。

それは アクシャットではない。

それは 清らかではない。

 

どんな理論も 清らかではあり得ない。

どんな思考も 清らかではあり得ない。

あらゆる思考が 借物だ。

思考は 決して独創的では あり得ない −−− 決して ! 

 

思考それ自体の 本質から言って、それは借物だ。

誰の思考も 独創的ではない。

それは あり得ない。

というのも、言葉は 独創的ではないし 

観念というものが 独創的ではないからだ。

あなたは それらを 学ぶことができる。

 

アクシャットとは、「独創的であるもの」−−− 

自分が学んだことではないもの、自分のものである 何か、自分にとって ユニークな何か、自分にとって 独自の何か、与えられたものでない 何かを、自分自身の内側に 見い出すことだ。

 

だから、頭での理解では、用をなさない。

観ることを 実践しなさい ! 

そうして初めて ある日、何かが あなたの中に爆発する。

そして、あなたは 純粋さ、無垢であること、至福の別世界に 気づく。

そのとき、あなたは 実在するものを知る。

 

 

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」

(21)終わり・・・第16章「意志か、 明け渡しか (質疑応答)」(01)へ 続く