saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第16章「意志か、 明け渡しか」最初の質問(03)


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最初の質問(03)

(目撃することを通して、あなたは 事実に至る −−− 

結論と してではなく、仮定論としてではなく 直接に、即時的な事実として)

 

たとえば、私があなたに 何か言うとする。

あなたは それを考えることができる −−− 

そうしたら、あなたは 要点を 見逃す。

 

あなたは それを考えることができる。

目撃するとは何か、マインドとは何か −−− あなたは 考えることができる。

それは 一つのあり方だ、それがマインドの あり方だ。

だが、あなたは 私の言ったことを 考えるのではなく 実験してみることが できる。

私が「実験」と言うのは、いかにしてマインドを停止させるかを 知り、目撃することを 感じなければならない、 ということだ。

 

そうすれば 再び、あなたは 何かに たどり着く。

が、それは 結論ではない。

それは思考の過程を通して 達成されたものではない。

それは、あなたが はっきりと 自分で知ったものだ。

 

誰かが オーロビンドに 聞いた。

「あなたは 神を信じますか ?」と。

するとオーロビンドは

「いいや、私はまったく神など信じちゃいないよ」と 答えた。

質問者は困惑してしまった。

彼は、 オーロビンドなら、神に至る道を 示してくれると思い、ただそのために、はるばる遠い道程をやって来たからだ。

それなのにオーロビンドは

「私は 神を信じちゃいない」と 言った。

彼は自分の耳を 信じられなかった。

そこで、彼は もう一度 聞いた。

「それは困りました。私は、 ただ神に至る方法を あなたに聞くために、はるばる長い道程を やって来たのです。

もしあなたが 神を信じていないと おっしゃるなら、問題も質問も ありえません」

すると オーロビンドは言った。

「問題がない と 誰が言ったね ?

私が神を信じていないと 言ったのは、神を 知っているからだよ。

神 というのは 私の信仰ではない。

それは 考えることを通して 至った論理的 帰結ではない。 それは私の信仰ではない。

私は 知っている ! それは私の知だ」

 

マインドには、せいぜいのところ、信じることができるぐらいだ。

マインドは 決して、知ることは できない。

マインドは、神がいる と 信じることができるか 神がいない と 信じることができるか、その どちらかだ。

しかし、その両方が 信仰だ。

どちらも 信仰であり、両方とも マインディングを通して、考えることを通して、その結論に至った。

彼らは 考えた。

彼らは 論理的に その答えを 突き止めようとした。

そして、彼らは ある結論に至った。

ブッダは 信仰者ではない −−− 彼は 知っている ! 

そして「彼は知っている」というのは 

知ることは 唯一、ある方法でのみ 可能だということだ。

マインドを 通して ではない。

完全に マインドを 捨てることによってだ。

 

それは 考えにくい。

我々は マインドを通して 考える からだ。

それが 難しいところだ。

 

私は、 マインドという 媒体を通して 話さざるを得ない。

そして あなた方は、 マインドという 媒体を通して 私の話を 聞かざるを 得ない。

 

だから私が、 それはマインドを通しては 達成されない と 言うとき、あなたは マインドで受け取っている −−− 

だが、それはマインドには 考えられない。

マインドは それに関して、理論さえ作り出せる。

あなたは「真実はマインドを通しては達成できない」と 信じ始める。

もし そう信じ始めるなら、あなたは再び、マインドの中にいる ということだ。

 

あなたは「私は納得できない。 私はマインドを越えた何かがある とは信じられない」と 言うことも できる。

そうすれば、またしても あなたは マインドの中にある。

 

もし 延々と マインドを使い続けるのなら 

あなたは 決して マインドを越えられない。

 

あなたは ジャンプしなければならない。

 

そして、瞑想とは そのジャンプのことだ。

だから、瞑想は 非論理的で 不合理なのだ。

瞑想は 論理的ではない。

瞑想を 理にかなったものには できない。

 

あなたは、瞑想を体験しなければならない。

体験して 初めて、瞑想の何たるかを 知ることができる。

そこで、まず次のことから やってみなさい。

 

あなたが 知ろうとすることを 考えないこと −−− やってごらん −−− 自分自身の目撃者で ありなさい。

座って、リラックスして 目を閉じ、ちょうど スクリーンの上に 絵が写っているように、自分自身の思考を 行かせなさい。

それらを 見ていなさい。 それらを見るのだ。

それらを 見る 対象にしなさい。

 

一つの思考が 湧き上がってくる。

それを 深く 見つめなさい。

 

考えては ならない、ただ見るがいい。

もし それについて 考え始めたら 

あなたは 目撃者でなくなる −−− あなたは 罠に はまったのだ。

 

外で 警笛が鳴っている。

一つの思考が 湧き上がってくる −−− 

何台か 車が 通り過ぎて行く。

あるいは、犬が吠えるか、何かが起こるとする。

だが、それらを 考えてはならない。

ただ、思考を 見る。

思考が 湧き上がり、一つの形をとる。

今、それは あなたの前にある。

そして、すぐに それは通り過ぎていく。

そして、また 別の思考が 前の思考に取って代わる。

そういう 思考のプロセスを 見続ける。

 

一瞬でさえ、もし あなたが それについて考えることなく、その思考を 見ることができれば、何か 目撃することのなかに 得るものがあるだろう。

そして、目撃において何かを 知るだろう。

それが 味わいだ。

考えることとは 違う味わい −−− まったく違う 味わいだ。

だが、 人は それを 実験しなければならない。

 

 

(03)終わり(04)へ 続く