saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第16章「意志か、 明け渡しか」最初の質問(04)


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最初の質問(04)

(…目撃において何かを 知るだろう。

それが 味わいだ。

考えることとは 違う味わい −−− まったく違う 味わいだ。

だが、 人は それを 実験しなければならない )

 

宗教と科学は 二つに別れている。

が、ひとつのことは 似通っていて、強調する点は同じだ。

科学は実験の上に 成り立っている。

宗教もまた然りだ。

哲学だけは 実験的ではない。

哲学は 考えることだけで成り立つ。

宗教と科学は、実験の上に成り立つ。

客観的なものを対象に 実験するのが科学であり 

あなたの 主観を 実験の対象にするのが宗教だ。

 

科学は、あなた以外のものを 対象に 実験することで成り立つ。

そして、宗教は あなたについて 直接実験することで成り立つ。 それは 難しい。

というのも、科学においては、実験者がいて 実験するという動作があり、実験される対象がある。

そこには、対象と主観と実験という 三つがある。

 

宗教においては、それら 三つ全部が、同時に あなただ。

あなたは 自分自身に対して、実験しなければならない。

あなたは 主体であり 客体であり、実験室だ。

だから、考え続けていては ならない。

始めなさい、どこかから、実験を始めることだ。

そうすれば、考えるとは 何か、目撃するとは 何かを 直接感じとれるだろう。

そうすれば、考えることと 目撃することは 

同時に できない と わかるだろう。

 

それはちょうど、走りながら同時に 座るようなものだ。

走っていたら 座ることはできない。

その状態は 座っている状態ではない。

座っていれば、走ることはできない。

だが、座っているのは 足の機能ではない。

座っているのは、足が機能していない状態だ。

足が機能したら、座ってはいない。

座ることは 足の機能ではない。

走ることが、足が 機能しているということだ。

 

同じことが マインドについても言える。

考えることは マインドの働きだ。

目撃することは、マインドが 働いていないということだ。

マインドが 働いていないと、あなたは目撃している。

そうしたら、あなたは 目覚めている。

だから私は、マインドで考えることと 目撃することを 

両方 同時にはできない、 と 言ったのだ。

あなたは 足を使って、座ることと 走ることを 

両方 同時にはできない。

しかし、座ることが 足の機能だ という意味ではない。

座ることは、まったく足の 機能ではない。

それは 足が 機能していない状態だ。

 

あなたは 聞く。

「部分的な目撃と 全面的な目撃が あるのですか ?」と。

いや、部分的な目撃と全面的な目撃というものはない。

目撃は 全面的だ。

 

 

(04)終わり(05)へ 続く