saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第16章「意志か、 明け渡しか」最初の質問(05)


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最初の質問(05)

(…部分的な目撃と全面的な目撃というものはない。

目撃は 全面的だ )

 

それは 一瞬だけで、どこかへ いってしまうかもしれない。

が、目撃することが そこにあれば、それは全面的だ。

 

部分的に座ったり、全面的に座ったり できるかね ? 

部分的に座るとは どういうことか、理解できるかね ? 

目撃とは 全面的なことだ。

実際、 生においては、何ひとつ部分的であるものはない −−− 生においては。

マインドにおいてのみ、すべてが 部分的だ。

 

それは こう理解するといい。

マインドは 何ひとつ 全面的ではない。

決して そうあり得ない。

マインドがなければ すべてが全面的で 

何ひとつ 部分的ではあり得ない。

マインドには、部分的であること、断片的であることを 生にもたらす才能がある。

 

たとえば、怒っている 子供を 見なさい。

子供は まだそのままで 躾けられていない。

その子供の怒りを 見なさい、その怒りは全面的だ。

それは 部分的ではない。 何も抑圧されていない。

それは 精いっぱい開花している。

だから、子供が 怒っているのは とても美しい。

全面的であること 全てに、それなりの 美しさがある。

 

あなたが 怒っている時、その怒りは 決して全面的ではない。

マインドが 怒りの中に入ってくる −−− 

すると、その怒りは 部分的なものになる。

何かが 抑圧されているに 違いない。

その 抑圧された 何かが 毒になる。

そうしたら、あなたの愛も 全面的なものでは あり得ない。

それは 部分的だ。

憎むこともできなければ、愛することも できない。

 

マインドが 働いていれば 

あなたの やることなすこと 全てが、部分的になる。

 

子供は この瞬間、怒ることができる。

そして 次の瞬間には、愛の状態に なれる。

彼が 怒りのなかにある時、それは 全一だ。

そして彼が 愛のなかにある時、それも また全一だ。

子供に とっては、あらゆる瞬間が 全一だ ! 

子供のマインドは まだ開発されていない。

そして聖者は 再び、ちょうど 子供のようになる。

そこには 多くの多くの 違いがある。

が、 幼年期が 再び 彼に やってくる −−− 彼は 再び 全一に なる。

だが、彼が 怒ることは あり得ない。

 

子供は この生に関する限り、マインドを持っていない。

が、過去生、 そして無意識の中に 蓄積されている たくさんのマインドが ある。

それらが 機能し続ける。

 

だから、 子供は全一で あるかのように見える。

が 実際には、 彼は 全一ではあり得ない。

この生でのマインドは、まだ成長を続けているところでも、彼には潜在意識、 無意識、マインドより もっと深い領域の中に 隠されている無数のマインドが ある。

 

聖者は、まったくマインドを 持っていない −−− この生の ものでも、過去生のものでも。

だから 彼は、すべてにおいて 全一である以外 何もできない。

 

 

(05)終わり(06)へ 続く