saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(04)


f:id:saleem:20230127144839j:image

(04)

( もし あなたが 周辺から愛するとすれば 

あなたの愛は 決して 全一ではあり得ない −−− それは 常に 部分的だ )

 

そして、それは 多くのことを 意味している。

というのも、もし愛が 部分的なものなら 

残りのスペースは 憎しみで満たされているからだ。

もし あなたのやさしさが 部分的なら、残りは残酷さで 満たされている。

もし、あなたの善良さが 部分的なら、誰が 残りのスペースを 埋めるのだろう ? 

もしあなたの神が 部分的なものなら 

残りのスペースは 悪魔で埋めざるを得ない。

それは、部分的な行為は 必ず矛盾を 生み出し 

それ自身 葛藤することになるからだ。

 

近代心理学は「あなたは 同時に、 憎しみ 愛す」と 言っている。

両性動物であるのが、あなた方の マインドだ −−− 相反している。

同じ対象に、あなたは 愛と憎しみを持って 関わる。

もし 愛と憎しみが そこにあれば 混乱が生じる −−−

有毒な 混乱状態になる。

 

あなたの やさしさは、残酷さと 混じっている。

あなたの慈善は 泥棒であり、あなたの祈りは 暴力になる。

たとえ、あなたが周辺で 聖人であろうとしても 

その聖人は 罪に染められていることになる。

周辺においては、全てが 自己矛盾的になる。

中心から行為して初めて、あなたの行為は 全一になる。

行為が全一であれば、それなりの 美がある。

行為が 全一なら、それは 瞬間瞬間だ。

行為が 全一なら、あなたは 記憶を持ち運ばない −−− 

その 必要がない ! 

行為が 部分的であれば、それは 宙ぶらりんだ。

 

あなたが 何かを食べているとする。

もし部分的に 食べていたら、実際の行為は 終わっても、マインドの中で 食べ続けているだろう。

それは 宙ぶらりんのままだ。

唯一、全一に されたことだけに 終わりがあり、始めることができる。

部分的にしたことは、始めもなく終わりもなく、ただ ずっと続いていく。

 

あなたが 自分の部屋にいるとする。

そして、あなたは そこに自分の店と経済を 持ち込む。

あなたが 店にいる時 そこに自分の家と家庭のことを 持ち込む。

あなたは 決して “在る” ことがない。

あなたは 決して “在る” ことが できない、一瞬でさえも、その行為、状況の中に。

 

多くの物事が 絶えず持ち運ばれている。

それが 重たさだ。

マインドの上の、ハートの上の 張り詰めた重たさだ。

全一な行為には 始めと終わりが ある。

それは 量子的だ。

ひと続きの ものではない。

そこはそこにあり、後にはそこにない。

それから未知へ進んでいくのに あなたは 完全に自由だ。

そうでなければ、人は おなじ轍の中を 延々と進み 

マインドは ただの轍に なってしまう。

あなたは 同じ円周、悪循環の中を 延々と歩んでいく。

あなたは その轍の中を、延々と歩み続ける。

なぜなら 過去は 決して終わらないからだ。

それは 現在という瞬間にやって来る。

進み続け、そして未来へと 突き進んでいく。

実際、部分的なマインド、周辺的なマインドは 

その過去を 運び続ける。 そして過去は 大きなものだ。

たとえ過去生を 考慮に入れなくても 

過去というものは 大きい。

 

 

(04)終わり(05)へ 続く