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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第9話 彼方からのメッセージ (02)

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第9話 彼方からのメッセージ 02


けれども,鉱物圏にそれは存在しない
それは “スシュプティ(susupti)” だ
“ スシュプティ ” という言葉は絶対の眠りを意味する
ひとつの夢すらも湧いてこない
岩たちは夢さえも見てはいない
彼らには夢を見ることもできないのだ
夢を見るには
彼らはもう少し意識的でなくてはなるまい
岩はただそこにあるだけだ
それには何のパーソナリティーもない
それには何の魂もない
少なくとも現実のものはね
それは夢も見られない
その眠りは乱されることがない
昼も夜も
年がら年中
それは眠り続ける
幾千年の長きにわたってそれは眠ってきた
そして幾千年の長きにわたってそれは眠るだろう
ひとつの夢すらも,それをかき乱すことはない


ヨーガでは
われわれは意識を四つの段階に分けている
それらはド.シャルダンの区別と非常な関連性がある
第一はスシュプティ
深い眠りだ
鉱物圏はそれに相当する
鉱物圏というのは生よりもむしろ死に近い
物質が死んでいるように見えるのはそのためだ
そうじゃない !
それはその生命が育ってゆくのを待っているのだ
それは種のようなものだ
それは見かけは死んでいる
それは生命へと炸裂するにふさわしい瞬間を待っているのだ
けれども,いま現在
それは死んでいる
そこには何の心(マインド)もない
覚えておきなさい
最終段階においてもまた
ふたたびそこには何の心(マインド)もなくなる
ブッダは無心(ノーマインド)状態にあり
岩もまた同じく無心(ノーマインド)状態にある
そこに石像の重要性があるのだ
二つの対極の出合いーーー
岩が無心状態にあるというのは
岩はまだ心(マインド)以下だということだ
ブッダが無心状態にあるというのは
ブッダが心(マインド)を乗り越えているという意味だ
そこにはひとつの類似性がある
ちょうど子供と聖人の間にひとつの類似性があるようにーーー



子供は心(マインド)以下にある
聖人は心(マインド)を越えている
岩はブッダが通り過ぎた生のあらゆる混乱を通り抜けて行かなければなるまい
行って行って行って
そして乗り越えている
だが,そこにはひとつの類似性がある
彼はふたたび無心状態の中に存在している
彼は心(マインド)が必要ないほどまでに完全に意識的になっている
岩の場合はあまりにも無意識で
心(マインド)が存在できないのだ
岩においては無意識が絶対だ
それがために心(マインド)も不可能なのだ
ブッダにおいては
意識が絶対で心(マインド)の必要がない
それをあなた方に説明してみよう
それは学ぶべき
理解すべき最も重要な物事のひとつだ


心(マインド)が必要なのは
あなたが本当には意識的でないからにほかならない
もしあなたが本当に意識的だったら
そのときそこには〈洞察〉がある
何も考えることはない
そのときあなたは洞察から行為する
心(マインド)から行為しはしない
そうなったら心(マインド)は必要ない
あなたがひとつのことを真実と見たならば
そのまさに見るということがあなたの行為になる


たとえば,あなたが家の中にいて
その家が家事になるとしよう
あなたはそれを見る
それは考えるということじゃない
あなたはただただそれを見る !
そしてあなたはその家から飛び出す
あなたは待ちはしない
思案したりしない
あなたはそれについて考えあぐねたりしない
尋ねまわりもしない
本を調べるわけでもない
誰かのところへ行って
どうしたらいいかアドバイスを求めたりはしない


あなたが夜の散歩から帰って来る途中
道の真ん中で一匹のヘビに出くわすーーー
あなたは飛びのく !
どんな考えがはいって来るより先に
あなたは跳ぶ
あなたが跳ぶのは考えた上のことじゃない
それは洞察から出たものだ
大きな危険がそこにある
まさにその危険そのものが
あなたを生き生きと,強烈に,意識的にする
そして,あなたは意識の力で飛びのくのだ
それは無心のジャンプだ


けれども,こうした瞬間はあなたの人生には稀だ
なぜならば
あなたはまだ自分の意識を強烈に,トータルに生きる用意ができていないからだ
仏陀にとってはそれが普通なのだ
彼は,心(マインド)がけっして必要ないほどに
けっして相談を受けないほどにトータルに生きている


第一の領域,鉱物圏は無心圏だ
そこには何の “自己” もない
それは明白だ
なぜならば,心(マインド)なしでは自己は存在できないのだからだ
ふたたび第四においてそこには何の自己もなくなる
というのも
心(マインド)がないところにどうして自己が存在できよう ?
心(マインド)というのはひとつの中心(センター)から作動する必要がある
だからこそそれは自我(エゴ)をつくり出すのだ
自己ーーー
心(マインド)はそれ自身をコントロールしておかなくてはならない
心(マインド)はそれ自身を一定のパターンに
秩序に保っておかなくてはならない
それはそれ自身を保持する必要がある
自分自身を保持するために
それはひとつの中心(センター)をつくり出す
なぜならば
中心があってはじめてそれはコントロールを保てるからだ
中心がなかったら
それはコントロールを保つことなどできまい
だから,いったん心(マインド)がはいり込んだら
自我(エゴ)はもうその途上にある
遅かれ早かれ,心(マインド)は自我(エゴ)を必要とするするだろう
自我(エゴ)なしでは心(マインド)は機能することができまい
さもなかったら誰がコントロールする ?
誰がことを処理する ?
誰が操作する ?
誰が計画する ?
誰が夢見る ?
誰が企画を立てる ?
そして,そこにひとつ不変なものとして照会すべき誰がいる ?
というのも
心(マインド)は変化し続けるものだから
ひとつの思いからまた別な思いへーーー
それは思考の行列だ
もし何の自我(エゴ)も持たなかったら
あなたは迷子になってしまうだろう
あなたは自分が誰か
そして自分はどこへ行くところなのか何のためなのかもわからなくなってしまうだろう

鉱物圏には何の心(マインド)もなく,何の自己もなく
そして何の時間もない
それは時間以下なのだ
時間はまだはいって来ていない
岩は何の過去も,何の現在も
何の未来もない


そして仏陀についてもまたしかり
彼もまた時間を越えている
彼は何の過去も,何の現在も,何の未来も知らない
彼は〈永遠〉の中に生きている
実際には
それが〈現在〉にいるということの本当の意味なのだ
現在にいるということは
過去と未来の間にあるそのスペースを意味するわけじゃない
辞書にはそう書いてある
過去と未来の間のスペースが “現在” と呼ばれる
だが,それは現在じゃない
これでは何という現在だろう ?
これはもうすでに過去になりかかっている
それは存在から出ていくところだ
この瞬間ーーー
もしあなたがそれを “現在” と呼んだとしても
あなたがそれを現在と呼んだとその瞬間に
それはもう過去になっている
それはもう現在じゃない
そして,あなたが未来と呼んでいたその瞬間も
あなたがそれを未来と呼んだその瞬間に
もう現在になってしまっている
そして,さらに過去になろうと動いてゆくところだ
こんな現在は本当の現在じゃない
過去と未来の間にある現在など
過去と未来の時間の行列の部分にすぎない



(03)へ続く