saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第9話 彼方からのメッセージ (01)

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第9話 01

般若心経
“ それゆえに,般若波羅密多を大いなる真言,大いなる知恵の真言,無上 の 真言,無比の真言,一切の苦しみを鎮めるものとして知るべきである。
それは真実である。
なぜならば,間違いなどあり得ないのだから。
般若波羅密多によって,この真言は次のように説かれた。

往けり,往けり,超えて往けり,全て超えて往けり。
なんという目覚めよ,嗚呼 !
これで完全な知恵の心髄(ハート)が完成する。”



ティヤード.ド.シャルダンは,人間の進化を四つの段階に分けている
第一を彼は鉱物圏(geosphere)と呼ぶ
第二は生物圏(biosphere)
第三は精神圏(noosphere)
そして第四がキリスト圏(christosphere)
これら四つの段階は非常に重要だ
それらは理解されねばならない
それらを理解することが
般若心経のクライマックスを理解するのに役立ってくれるだろう


鉱物圏(geosphere)ーーー
それは完全に眠りこけた意識の状態
物質の状態だ
物質とは意識の眠りこけたものにほかならない
物質というのは意識に対立したものじゃない
物質とは意識の眠りこけた状態
いまだに目覚めていない状態なのだ
一塊の岩はひとりの眠れるブッダなのだ
いずれある日
その岩はひとりのブッダになるだろう
それには何百万年という年月がかかるかもしれない
が,それは問題じゃない
その違いは時間の違いでしかない
そして時間などというものは
この永遠にあってはたいした問題じゃないのだ
東洋において,われわれが石像を作ってきたのはそのためだ
それはとても象徴的だ
岩とブッダが石像を通して橋渡しされている
岩は最低でありブッダは最高だ
石像は
石の中にすらブッダが潜んでいるということを言い表している
石像は
ブッダというのは岩の顕現するに至ったものにほかならないと言っているのだ
岩がその中に潜在する可能性のすべてを具現させている
これが第一のステージだ
鉱物圏ーーー
それは物質だ
それは無意識だ
それは眠りだ
それは前生命段階だ
この段階には何の自由もない
なぜならば
自由というのは意識を通じて介入してくるものだからだ
この状態にはただ原因と結果しかない
この法則は絶対だ
事故の可能性すらもない
自由など聞いたこともない
自由というのは意識の影としてはじめて介入してくる
意識的になればなるほど,それだけ自由なのだ
それがために仏陀は “ムクタ(mukta)” と呼ばれる
完全なる自由ーーー


岩は完全に束縛の中にある
あらゆるところから
あらゆる方向から
あらゆる次元において拘束されている
岩というのは魂の監禁されたものだ
ブッダとは魂の翼に乗ったものだ
そこにはもう何の鎖も
何の束縛も
何の監禁もない
どんな壁もひとりのブッダを取り囲んではいない
彼の実存には何の境界線もない
彼の実存は存在そのものと同じだけ広大だ
彼は〈全体 whole〉とひとつなのだ


とにかく
鉱物圏の世界では原因と結果が唯一のダンマ(dhamma)だ
唯一の法則
唯一の道(TAO)ーーー
科学は依然としてその鉱物圏に閉じ込められている
なぜならば
それは依然として原因と結果という文脈で考え続けているからだ
現代科学というのはごく初歩的な科学だ
とても原始的だ
なぜならば
それは物質以上の何も理解することができないのだからだーーー
その概念は非常に限定されている
そして,それだからこそ
それは解決するよりももっと多くの悲劇をつくり出しているのだ
その視界(ビジョン)はあまりにも限られていて
その視界(ビジョン)はあまりにもちゃちで,小さくて
とうてい存在の全体性とは調和がとれない
それはちっぽけな穴からのぞいて
それがすべてだと思い込んでいる
科学は依然として鉱物圏に閉じ込められている
科学は依然として束縛の中にある
それはまだ翼を持っていない
それは原因と結果を乗り越えだしてはじめて翼を得ることだろう
そう
いくつか小さな火花はある
原子物理学者たちは
原因と結果を越えた世界に入り込みつつある
その境界線を越えつつある
それがゆえに,不確定性原理などというものが起こっているのだ
大変な力でもって起こってきている
原因と結果は確定性の原理だ
これをやれば必ずこれが起こる
100度に熱すれば水は蒸発するーーー
それが原因と結果だ
水には何の自由もない
それは
「今日はその気分じゃない
100度になったって蒸発してやらないぞ !
何と言われてもノーだ !」などとは言えない
いいや
それはそんなことは言えない
それは抵抗できない
それは実に法則厳守だ
とても従順だ
また別な日
水がとてもハッピーだからといって
それは
「あんまり沸かしすぎなくてもいいよ
50度で蒸発しちゃうから
ひとついいことをしてあげよう」などとも言えない
いいや
それは不可能だ
古い物理学,古い科学にとって
不確定性原理などというものは想像だに及ばなかった
不確定性原理というのは自由の原理ということだ
いまや何かが見えはじめている
いまや彼らは
以前ほどにはあまり確信がない
いまや彼らは,それを物質の最深部にも見ている
そこにはある種の自由があるのだ
電子というのが微粒子であるか
あるいは波動であるかは何とも言いがたい
それはその両方の振舞い方をする
あるときはこう振舞い
あるときはああ振舞う
そして,それは予測する方法のない量子なのだ
そしてそればかりじゃない
それはあまりにも自由で
ときとして同時に波動と粒子両方の振舞い方をする
それは,古い科学者にとっては想像も理解もまったく不可能なことだ
アリストテレスにそれを理解することはできまい
ニュートンにそれを理解することはできまい
そんなことは納得できない
それは,何かが同時に線であり点であるかのように振舞うというのと同じことだ
それは非論理的だ
どうして何かが点と線の両方であるかのように振舞える ?
それは線であるか
あるいは点であるかのどちらかしかない


しかし
いまや物理学者は物質の内奥無比の核心を垣間見はじめている
ごくごく遠まわりをしながらも
彼らは生命の最大の要素のひとつに行き当たりつつあるのだ
自由ーーー



(02)へ続く


般若心経
1980年1月10日 初版発行

著者 バグワン・シュリ・ラジニーシ
訳者 スワミ.プレム.プラブッダ
発行 株式会社めるくまーる