saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

ダイヤモンド-スートラ OSHO 金剛般若経を語る 01



 「第十一章 完全に光明を得た者」 THE FULLY ENLIGHTENED ONE


21、世尊は問われた
  「どう思うか スブーティよ『私によって法が教え示された』という考えが如来に起こるだろうか?
  誰であれ スブーティよ
  『如来は法を教え示した』という者は虚言を弄している
  彼はそこにないものを捕らえて私を誤り伝えている
  何故か?

22、それは ほんの少しの法でさえも
  そこには見出だされず 得られないからだ
  だからこそ
  それは『無上の 正しい 完全な〈光明〉』と呼ばれる

  さらにまた スブーティよ
  その法は自己一致的であり
  そこにおいては何も不一致なものはない
  それゆえに
  『無上の 正しい 完全な〈光明〉』と呼ばれる

  『無上の 正しい 完全な〈光明〉』は
  自己 生けるもの 魂 個人がないということによって
  自己一致的で平等であるから
  あらゆる善き法の総体として 完全に知られているのである」


  どう思うか スブーティよ
  こういう考えが如来に起こるだろうか?
  「私によって生きとし生けるものは自由になった」
  そのようにみなしてはならない スブーティよ!
  何故か?
  それは如来が自由にした生けるものはいっさいないからだ

26、さらに世尊はその折りに
  次のような詩を説かれた

  形によって 私を見た者たち
  声によって 私に従った者たち
  彼らは 誤った努力に耽っている
  彼らは 私を見ることはないであろう

  法から 覚者(ブッダ)たちを見るべきである
  法身から 覚者(ブッダ)たちの導きが生じる
  しかし 法の真の本性は知ることはできない
  誰も それを対象として気づくことはできない

29、『如来は去り 来たり 立ち 坐し 臥す』
  という者は誰であれ
  私の教えを理解していない
  何故か?
  〈如来〉は
  どこへも去ったことがなく
  どこからも来たことがない者 と呼ばれるからだ
  それゆえに彼は
  如来
  アルハット
  完全に光明を得た者 と呼ばれる」


再提示しようーーー

  世尊は言われた
  「如来は現実に従って語り
  真理を語り
  〈あるがまま〉を語る
  それ以外のものは語らない」
  「スブーティよ
  〈如来〉は〈真の如性〉と同義である」


如性という言葉は
現実(リアリティ)へ向かう仏陀のアプローチにおいて きわめて重要だ
如性という言葉は
仏教では、他の宗教で神が重要であるのと同じほどに重要だ

如性を表す仏教徒の言葉は、タタター(tathata)だ
それは
「物事が そのようにあるのを見て、どんな態度もとらず
どんな意見も持たず、判断したり避難しない」ことを意味する


仏教の瞑想は如性から成っている
その方法は きわめて実際的で、きわめて深く進む
仏陀は弟子たちに言った
「物事を、干渉することなく、ただ あるがままに見つめよ」

たとえば、あなたは頭痛をもっている
あなたがそれに気づいた瞬間、ただちに「意見(オピニオン)」が入ってくる

「これはよくない
なぜ私は頭痛にかかるのか?
頭痛にならないためには どうしたらいいのか?」
あなたは たちまち心配する
あなたは 意見をもった
あなたは 頭痛に反対する
あなたはそれを 抑圧しはじめた
あなたは、それをアスピリンやノヴァジンを使って科学的に抑圧するか
あるいは 意識のなかでそれを抑圧するか、いずれかだ

いずれにしても あなたはそれを直視しないで、脇へ置く
あなたは何か ほかのものに没頭する

あなたは、頭痛を忘れられるように、何か ほかのもので気分をまぎらわしたい
しかし、あなたは両方のやり方で 如性を見のがしている


仏陀は どう示唆するだろう?
仏陀は「頭痛、 頭痛」と 二回留意せよ、と言う
友好的でもなく 敵対的でもなく、それに対する感情をもたないことだ
それが あなたとはなんの関係もないかのように
「頭痛、 頭痛」と、ただたんに留意することだ
意見をいっさいもたず、それに 掻き乱されず、気を散らされず
影響されないままでいることだ


その要点を見るがいい
ただちに、頭痛の 九十パーセントは去る
というのも頭痛は ほんとうの頭痛ではないからだ
その九十パーセントは 敵対的な意見から生じる
たちまちあなたは その大部分はもうそこにないことがわかる

そしてもうひとつのことに気づく
遅かれ早かれ、あなたは頭痛が 何かほかのもののなかに消えつつあるのを見る
たぶん今度は あなたは怒りを感じているだろう

何が起こったのか?
もし頭痛を抑圧したら
あなたは けっしてその真のメッセージは何か 知るには至らない
頭痛は、あなたが この瞬間 怒りに満ちていること示すものとして そこにあっただけだ
そしてその怒りが 頭のなかに緊張を生み出している
かくして頭痛が起こる
しかし、あなたは 見まもった
あなたは たんに それに留意した
「頭痛、 頭痛」とーーー
あなたは 片寄らず、客観的なままにとどまった
そうなったら 頭痛は消える
その頭痛は あなたに「私は頭痛ではない、怒りだ」というメッセージを与える

さて、仏陀は 再び留意せよ と言う
「怒り、 怒り」ーーー
今度は 怒りに対して怒らないことだ
さもなければ あなたは再び罠にかかり、〈あるがまま〉を見のがす
もしあなたが「怒り、 怒り」と言えば、ただちに怒りの 九十パーセントは消える
これは非常に 実際的な方法だ

そして、残された十パーセントが そのメッセージを放つ
あなたは それが 怒りではなく、自我だということを見るに至るだろう
再び 留意しなさい
「自我(エゴ)、 自我(エゴ)ーーー等々


一つのものは もう一つのものにつながっている
そして より深く 進めば進むほど、それだけあなたは根元的な原因に近づく
ひとたび根元的な原因に到達したら、その連鎖は破れる
そこから先は何もない
あなたが その連鎖の最後の環に留意する瞬間がくる
そうなったら〈無〉だ
そうなったら あなたは全連鎖から解放され、大いなる純粋性、大いなる静寂が起こる
その静寂が、如性と呼ばれる
これは たえず実行されなければならない

ときどき忘れ、無意識的、機械的に意見を出してしまうかもしれない
そのときには「意見(オピニオン)、 意見(オピニオン)」と 再び想い起こしなさい、と仏陀は言う

自分は意見をつくった というそのことに気をとられてはいけない
自分は失敗してしまったと意気消沈してはいけない
ただ「意見、 意見」と留意することだ
そうすれば突然あなたは見る
意見の九十パーセントは去り、残っているのは十パーセントだということを
そして それがそのメッセージを あなたに伝えているということをーーー
そのメッセージとは何か?
そのメッセージは ある抑制、ある禁制(タブー)があり、その禁制(タブー)から意見が生じた ということだ

性欲がマインドのなかに生じると、たちまちあなたは「これは悪い」と言う
これは「意見」だ

なぜ それが悪いのか?
それは悪いものだ、タブーだと教えこまれてきているからだ
「タブー、 タブー」と 留意しなさい
そして進みなさい

ときとして こういうことも起こる
あなたは判断した
判断したばかりではなく、意見をつくった
意見をつくったばかりではなく、「自分は失敗した」と憂鬱になる
そうなったら、「憂鬱、 憂鬱」と 再び留意しなさい

そうして 続けてゆくのだ

気づいたときは いつでも、どんな時点であろうと、その時点から留意するがいい
ーーーただ たんなる留意だーーー
そして ことの全体から離れるがいい
そうすればまもなく、もつれたマインドが もう以前ほどにはもつれていないのが見える
物事が消えはじめる
そして 如性、タタターの瞬間が来る
そのとき あなたは ただそこにいて、〈存在〉も そこにある
そして あなたと〈存在〉のあいだには どんな意見もない
すべてが思考によって かき乱されず、思考によって汚されない
〈存在〉は ある
だが マインドは 消えてしまっている
その ノーマインドの状態こそ 如性と呼ばれるものだ

仏陀は言う

  〈如来〉は〈真の如性〉と同義である

同義ーーー
つまり、如性という質を持っているのではない
如来が〈如性〉なのだ

そして 仏陀は言う

  如来(タターガタ)は現実(リアリティ)に従って語る

彼は それ以外の方法では語れない
彼が現実(リアリティ)に従って語ることを 選択するというわけではない
選択は いっさいない
何であれ 現実であるものが 彼を通して語られる

それは 彼が こう選択するということではない
「これは現実だ、私は これを語らなければならない
あれは現実ではない、私は あれは語らない」
ーーーそういう選択が生じたら、あなたは まだブッダではない


タターガタは〈無選択〉から語る
だから タターガタは真理を語るというのではない
実際のところ、それは このように言われるべきだ
「タターガタによって語られたことは 何であれ真理である」
彼は 現実に従って語る

実際のところ、現実、真実が 彼を通して語る
彼は ただ媒体、中空の竹だ
現実、真実が 彼を通してその歌をうたう
彼には 自分自身の歌は まったくない
彼の意見は すべて消え、彼自身も消えている
彼は 純粋な空間だ
真理は 彼を通って、世界のなかへ入ることができる
真理は 彼を通って、世界のなかへ降臨することができる

彼は、真理を語る
彼は、〈あるがまま〉ーーーヤター-ブータムーーーを語る
何であれ実態(リアリティ)を、彼は語る
彼は それについて どんなマインドももたず、けっして干渉しない
彼は ひとつの物事も落とさず、ひとつの物事も付け加えない
彼は 鏡だ
鏡は 鏡の前に来るものは何であれ 反映する
この 反 映 性 が 如 性 だ


  スブーティよ
  〈如来〉は〈真の如性〉と同義である

なぜ彼は 真の如性と言うのか?
偽りの如性というものも あるのだろうか?
そのとおりだ
あなたは 練習することができる
あなたは如性という ある質を練習し、養成することができる
が、それは現実にはならない
真の如性は 養成されるべきものではない
それは 来る

たとえば、「あなたは養成できる」と 私が言うとき
それは どういう意味だろう?
あなたは こう決心できる
「私は、どんな結果を招こうとも、真理のみを語る
たとえこの命を失わなければならないとしても、私は真理を語る」
そしてあなたは真理を語るが、それは真の如性ではない
それは あなたの決心だ
偽りが あなたのなかに湧き上がる
あなたは その偽りを抑えつけつづける
あなたは「たとえ命が危なくなっても、私は真実であることを決心した」と言う

それは 努力だ
真実が あなたの威信になってしまっている
奥深いところでは、あなたは 殉教者になることにあこがれている
奥深いところでは、あなたは 全世界に知らせたいのだ
あなたが真実に満ちた人間だということを
そのためなら自分の命をも犠牲にする覚悟がある ということを
あなたは偉大な人間、マハトマだということをーーー
そしてあなたは 自分の命を犠牲にするかもしれない
だが それは真の如性ではない

真の如性は まったく選択を知らない
あなたは たんに真実(リアリティ)の道具だ
あなたは 介入しない
あなたは あいだに立ち入らない
あなたは あっさり身を引いた

鏡はこう決心しない
「この人は私の前に立っている
私は、どんな結果を招こうとも、彼のほんとうの顔を彼に見せるつもりだ
たとえ彼が私に石を投げつけても
ーーーというのも彼はとても醜いからだ、彼は怒り出すかもしれないーーー
私は彼に ほんとうの顔を見せよう」


もし鏡が そんなふうに考えたら、そのときには鏡はもう鏡ではない
マインドが入ってきている
それは反映していない
それは彼の決心だ
純粋性は失われている

しかし、鏡は ただそこにあるだけで、どんなマインドももたない
ブッダも そうだ
だから仏陀は 真の如性(真如)という言葉をつかう


留意するという この仏教の瞑想ーーー
それを試してみなさい
それで遊ぶがいい
私は それを練習しなさいとは言えない
私は それで遊びなさいとしか言えない
坐りながら、歩きながら、ときどき それを想い起こしなさい
ただそれで遊ぶことだ


02へ つづく