saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第9話 彼方からのメッセージ (03)

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(…過去と未来の間にある現在など
過去と未来の時間の行列の部分にすぎない )


私の言う現在
私の言う,あるいは仏陀の言う
あるいはキリストの言う〈いま〉はまた違う
キリストはこう言う
「明日のことを思いわずらうことはない
野の百合をごらん
彼らは骨折らず,彼らはきりきりまいもしない
そしてごらん
その彼らがどんなに美しいか !
どんなに信じ難いほど美しいか !
ソロモンでさえ
彼の光輝のすべてをもって盛装してもこれほど美しくはなかった
野の百合たちをごらん…」
その百合たちは一種の〈いま〉性の中に生きている
彼らは過去を知らない
彼らは未来を知らない


仏陀は何の過去も
何の未来も
何の現在も知らない
彼は何の区别も知らない
それが〈永遠〉という状態だ
そうしたとき
その〈いま〉は絶対的にそこにある
それはただ〈いま〉であり
ただ〈ここ〉であり
ほかの何ものでもない
しかし,岩もまたその状態にある
無意識だ
言うまでもない


第二の領域は生物圏だ
それは生命,前意識を意味する
最初の領域は物質だった
二番目の領域は生命だ
樹々,動物たち,鳥たちーーー
岩は動けない
岩はどこに何の生命も持たない
目に見える形ではどこにもない
樹には多くの生命がある
鳥にはさらにある
樹は地面に根づいている
あまり動けない
ほんのちょっとは動く
揺れる
だが,あまり動けはしない
樹にはそれほどの自由がない
少しの自由は確かにあるけれども,動物はより大きな自由を持っている彼は動くことができる
彼はちょっぴり
どこに行くか,何をするか選ぶことができる
鳥はさらにもう少し多くの自由を持っている
それは飛ぶことができる
これが生物圏,生命圏と呼ばれる領域だ
これは前意識だ
ほんの初歩的な意識が姿を表している
岩は完全に無意識だった
樹はそれほど絶対的に無意識だとは言えない
そう
無意識ではある
が,意識の何ものかがしみ込みつつある
意識の光明が差し込みつつある
そして動物はもう少し意識的だ


第一の状態は
パタンジャリの “スシュプティ(susupti)” にあたる
深い深い眠りーーー
第二の状態はパタンジャリの “スワブナ(swabuna)” に相当する
夢見の状態
意識はひとつの夢のようにはいって来ている
そう
犬たちは夢を見る
実際にわれわれはそれを目にすることができる
犬が眠り込んでいるのを観察すれば
彼が夢を見ていることがわかるだろう
夢の中で
ときとして彼はハエをつかまえようとする
そして,ときとして彼は悲しそうに見えるだろうし
ときとしては幸福そうに見えるだろう
猫を観察してごらん
すると,ときには彼女は夢の中でネズミに飛びかかっている
あなたは彼女が夢の中で何をやっているかわかるだろう
ネズミを食べ,髭を掃除する
猫を観察してごらん
夢がはいっている
物事が意識の世界へ向かって起こりつつある
意識が浮かび上がりつつある


因果関係は依然として優勢だ
が,岩の中ほどじゃない多少の自由が可能になる
そして,それがためにさまざまな事故が起こりはじめる
動物にはちょっぴり自由がある
彼はいくつかの物事を選ぶことができる
彼は気まぐれになれる
気分がよくてあなたに愛想がいいかと思えば
気分が悪くてそっけないこともあるだろう
多少の決断が彼の実存の中にはいっていっている
だが,ごくちょっぴり
ほんのはじまりだ


自己というものはまだ完全にはまとまっていない
ごくゆるやかな自己
ごった煮ーーー
だがそれはやって来つつある
その構造が形を取り
その姿が現れつつある
動物は過去志向だ
それは過去から生きる
動物には未来という観念は何もない
それは未来のために計画することなんかできない
先のことを考えても
それはごくごく断片的なものだ
たとえば,動物が空腹を感ずれば
それは先のことを考えることができる
何時間か先のことを
自分は餌をもらえるから待たなくちゃいけないーーー
けれども
動物には1ヶ月,2ヶ月,3ヶ月未来のことは考えられない
何年ということになったら動物には想像もつかない
それはどんなカレンダーも
何の時間観念も持っていない
それは過去志向だ
それが何であれ過去に起こってきたこと
動物はそれが未来にも起こるものだと予想する
その未来はだいたい過去と同じようなものだ
それはひとつのくり返しにすぎない
動物は過去に支配されている
時間は過去を通じてはいってきている
自己も過去を通じてはいってきている


第三の領域は精神圏だ
心(マインド),自意識が起こってくる
一番目は無意識だった
二番目は前意識だった
三番目は自意識だ
意識が来る
ただし,ひとつの災難を従えて
自己ーーー
そうでないとそれはやって来られない
自己というのはひとつの必要悪なのだ
意識は “自分” という観念とともにやって来る
内省がはじまる 思考がはじまる
パーソナリティーが姿を現わす
そして心(マインド)とともに未来への志向性がやって来る
人間は未来に生きる
動物は過去に生きる


発達した社会は未来に生きる
未発達の社会は過去に生きる
原始人たちはいまだに過去に生きている
未来に生きるのは文明化した人たちだけだ
未来の中に生きることは
過去の中に生きることよりも高度の状態なのだ
若者たちは未来に生きる

老人たちは過去に生きはじめる
若者たちは老人たちよりも生き生きとしている
新しい国々
新しい文化は未来に生きる
たとえばアメリカは未来に生きている
インドは過去に生きている
5千年,1万年の過去
インドはそれを背負って歩き続けている
それはたいそうな重荷だ
それをしょって歩くのは実にな難儀なことだ
押しつぶされる
ところが人はそれを持ちまわり続ける
それは遺産なのだ
そして,人はひどく過去を自慢にする


過去を自慢するということは,単に未開の状態にすぎない
人は未来に手を伸ばさなければならない
人は未来を手さぐりすべきだ
過去はもう終わった
未来はこれからやって来る
人はその準備をすべきだ
それはいろいろなところで観察することができる


インド人の心(マインド)は過去の出来事にしか感動しない
いまだに人々はラーマ(大叙事詩マハーバーラタ』の主人公)の劇を演じ続けている
毎年のようにーーー
そして彼らはものすごく感激している
何千年が経過し
彼らは
同じ劇を何度も何度も何度も上演してきた
そしてまたいくらでもやるだろう
しかも,彼らはものすごく感激している
彼らは最初の人間が月を歩いたときにはそれほど感激しなかった
彼らはラーマの劇で感激するほど
そしてずっと感激してきたほどたいした感激はしなかった
彼らはストーリーを知っている
彼らはそれを何回も見ている
だが,それは彼らの遺産だ
彼らはそれをとても自慢にしている


あなた方はびっくりするだろうが
インドのヒンドゥー教のマハトマ(聖者)たちや
シャイナ教のマハトマたちの中には
人間は月の上を歩かなかった
アメリカ人が騙しているのだ,と証明しょうとしてきた人たちがいる
なぜか ?
月は神だからだ
どうしてその月の上を歩いたりできる ? ーーー
そして,中には彼らに耳を傾け,彼らに追従する人たちもいる


ひとりのジャイナ僧が
あるとき グジャラートで私に会いに来た
そして彼は言う
「私を支持してください
私には何千人という信奉者がいます」
そして事実その通りだった
で,そのこと
彼の生涯のテーマは何かと言えば
アメリカ人たちがごまかしをやっている
あの写真はみなつくりものの映像トリックだということなのだ
彼らが月から持って来たというあの石は
シベリアかどこか地球から持って来たにすぎない
誰も行ったことはないし,誰も絶対に行けやしない
というのも,ジャイナ教のシャストラ(shastro)の中には
ジャイナ教の経典類の中には
月は神だと書かれているからだ
どうしてその神の上を歩いたりできる ?


ん? これが過去志向だ
とても息苦しい
インドが成長できないのはそのためだ
それは進化できない
それは進歩できない
それは過去にへばりついている


精神圏にともなって心(マインド),自意識,内省
思考,パーソナリティー,未来志向が姿を現わす
そして,未来に向かって用意をはじめればはじめるほど
それだけもちろんあなたは不安になる
アメリカ人というのが最も緊張した人たちなのはそのためだ
落ち着かない
インド人はとても安らかだ
あまり安らかすぎて
彼らには能率も何もあったものじゃない
知っているかな ?
インド人が電球を取り換えるとなると三人がかりだ
ひとりが電球を持って
二人が梯子を押さえている
なんとも安らかな人たちだ !
リラックスしている
彼らは不安で苦しむというようなことがない
彼らは,不安というのが本当のところなんであるか知りやしない
不安は未来とともに介入してくる
あなたは計画を立てなければならないからだ
ただ自分の人生の古いやり方をくり返し続けるわけにはいかない
そして,何か新しいことをやるとき
そこには過ちの可能性がある
過ちの可能性の方が強いくらいだ
新しいことを試みれば試みるほど
それだけあなたは不安になる
心理学的に見てアメリカが最も乱れた国であり
インドが最も乱れていないのはそのためだ


動物たちには不安なんかない
過去に生きるというのはより低い心(マインド)の状態なのだ
もちろんより快適ではある
より便利ではある
それを
ヒンドゥー教のマハトマたちは世界に向かってこう言い続ける
「見よ
われわれは何と平和であることか
ノイローゼのひとつも存在しない
たとえもし飢えるとしても
われわれはとてもとても静かに飢える
たとえもし死ぬとしても
われわれは大喜びで受け容れて死ぬ
それにひきかえ,あなた方ときたら気も狂わんばかりだ」


しかし,覚えておきなさい
進歩は不安を通じてやって来る
進歩にともなって
そこには不安がある
そこにはおののきがある
間違えるかもしれない
何か過ちを犯すかもしれないーーー
過去については何も問題なんかない
あなたはそれをくり返すだけだ
それはもう定着している
その道は完璧にわかりきっている
あなたはその上を旅してきた
あなたの両親たちも旅してきた
そしてアダムとイヴにさかのぼるまで以下同様ーーー
誰も彼もそれをやってきた
間違える可能性など何もない
何か新しいことにともなって
心配,不安,恐怖
失敗の恐怖がはいってくる


この第三の領域,精神圏は不安緊張の領域だ
もしあなたが二番目と三番目のどちらかを選ばなければならないとしたら
三番目を選びなさい
二番目を選ばないこと
ただし
三番目と二番目のどちらかを選ばなくてはいけないという必要もないがね
三番目と四番目という選択もある
そうしたら四番目を選ぶがいい
つねにより高いものを選ぶことだ


覚えておきなさい
私がインド人の心(マインド)を非難するとき
私は仏陀を非難しているんじゃない
私はクリシュナを非難しているんじゃない
彼らは四番目を選んでいる
彼らもまた安らいでいる
彼らもまたリラックスしてはいる
だが,彼らのくつろぎは
時間そのものを落とすことによって来ているのであって
過去に生きることによっているのじゃない
彼らは完全にリラックスしている
彼らには何の不安も何のノイローゼもない
彼らの心は穏やかだ,波ひとつない湖だ
けれども,それは二番目を選ぶことによっているのじゃない
四番目を選ぶことによっているのだ
心(マインド)以下にとどまることによっているのではなく
心(マインド)を乗り越えることによっているのだ
そして,それがことの次第なのだ



(04)へ続く