saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」4️⃣

(…宗教的なマインドは 未来について気にかけないし、過去に何があっても 気にかけない。
この瞬間の内に生き、瞬間から瞬間へと 動いていく。
この瞬間が消えるときには、次の この瞬間がくる。
宗教的な人は もうそのなかに動いていっている。
河が 流れてゆくように。)


あなたに憶えておいてほしいことがある。
とても とても深い意味合いのあることだ。

それは、宗教的なマインド、宗教的な人、宗教的な在り方というのは、常に過程(プロセス)であるということだ。
そういう存在は 常に動いている ということだ。


もちろん、その動きには 何の動機があるわけではない。
それは どこか目的地(ゴール)に向かって動く動きではなく、 ただ 動きだけだ。
というのも、 動いていくことこそ〈現実 リアリティ〉の本性だからだ。

動きは〈現実〉の本性であり、宗教的な在り方というのは〈現実〉と 一緒に動くことだ。


河の流れにまかせて 浮いて流れる人のように、宗教的な人も 時間の河とともに流れていく。

ひとつひとつの瞬間を生き、そして、また動く。
特に 何を為すわけではない。
ただ単純に この瞬間を 生きるだけだ。

この瞬間が去れば、次の この瞬間がが来る。
そして その瞬間を生きる。


宗教的な人にとって 始まりはあっても 終わりはない。

覚醒への道程では、始まりはあっても 終わりはない。

それは 詠々と 無限につづく。


これと正反対が 無知について言える。
無知には 始まりがなく 終わりがあるだけだ。
私の無知は いついつ始まりました、こんなことが 言えるかね?

無知に 始まりはない。
仏陀の無知は いつ始まっただろう?

仏陀の無知に 始まりはなかった。
あったのは 終わりだけだ。
それは 二十五世紀も前の 満月の夜に終わりをつげた。


無知には終わりがある。が、始まりはない。
覚醒には 始まりはあるが 終わりはこない。

円輪は こうして完成される。
無知な人間が 解脱するとき、その円輪は 一つの完成した円となる。


無知には始まりがなく、終わりしかない。

覚醒には 始まりしかなく、終わりがない。

こうして円輪が完成する。

こうして、完成された円を内奥にもった、完全な存在が生まれる。
しかし この完全は、けっして不動を意味するものではない。

なぜなら 解脱には、終わりということがないからだ。
それは、無限に 永遠につづけられる。


さて、 一粒の種にも似た この美しい逸話を あなたも理解するよう努めてみなさい。


“ ある上皇が 導師愚堂(グドウ)に 訊いた

解脱に至った人間は

死ぬとどうなる? ”



もし上皇が、この問いを 哲学者にしたのだったら、きっと たくさんの答えをもらったにちがいない。
書物には そんな答えが 山ほど書いてある。


解脱に達した人には、死後 何が起こるのだろう?

仏陀も これと同じ質問を 何回となく受けたという。
そんなとき仏陀は ただ笑うだけだったが、あるとき こんなことがあった。

それは夜のことで、土器の 燭台が仏陀の近くに置かれてあった。
周囲にいた人たちのなかの 一人が この質問を持ち出して言った。
「解脱に達した人の死後は どうなるのですか?」

すると、仏陀は灯火を吹き消して こう言った。
「この炎は もう存在しなくなったわけだが、一体どうなったのかね? 何が起こったのだ?
どこへ行ってしまったのだろう?
あの炎は 今どこに在るのだろう?

ほんの一瞬前までは ここに在ったのに、今は 一体どこに行ってしまったのか?

これと同じことが 解脱に達した人にも起こるのだ」



これは 答というようなものではない。

質問者は 不満だったにちがいない。
仏陀は 質問を はぐらかしている、こう感じたにちがいない。


本当に知ってしまった人たちは、この問いを 必ず避けたり はぐらかしたりする。

だが知らない人たちは、この問いへの答を 多数もっている。
学者や 知識人がそうだ。

彼らに この質問をしてみるがいい。
山ほど 答を出すことだろう。

あなたはそのなかから 好きなのを選べばいい。



“愚堂は 応(コタ)える

どうして私が知っていましょう ”


上皇よ、あなたは 未来のことを訊いているが、私は 今ここにいるのですよ。
私にとって 未来は存在しないのです。

この瞬間だけがあるのであって、 ほかの時間はありません。
あなたは 死について、 しかも解脱に至っている人の死について訊いているが、それは 未来のいつか起こることか 過去に起こったことかのどちらかでしょう?

仏陀は 一体どうなったのだろう?
こう問うのと同じではないですか?


愚堂は だから言ったのだ。

“ どうして私が知っていましょう ”


彼の言っている意味は こうだ。
今、この今の瞬間の 私を 見てください。
解脱を得た者が あなたの眼の前にいるのですよ。
この私を 見てください。

なぜ それ以外のことを心配するのですか?


5️⃣へ つづく