saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」3️⃣

(…マインドには 二つの中枢(センター)が あって、一つは 考えることをし、もう 一つは 想像する。
両方とも 頭の領域のものだ。)


しかし、宗教は マインドの産み出すものでは全然ない。
それは 科学でも詩でもないか、あるいは またその両方だ。
これだからこそ宗教は、どんな詩にもまして深い神秘となる。


そこでは マインドは落とされる。
そのなかにある いろいろな中枢全てといっしょに マインドは落とされる。
そうなってから、見 る 。


それは ちょうどあなたが眼鏡を外し、脇に置いて視るのと 同じことだ。
マインドは 一つの機構(メカニズム)だから、脇に置くことができる。

あなたは あなたのマインドではない!


マインドとは 窓のようなもの、あなたは 窓辺に立って その窓から見ている。
そうすると、
窓の枠が〈現実リアリティ〉の枠になる。


あなたは 窓から外を見る。
月がのぼって 空は素晴らしく美しい。

しかしその空は、その窓枠で縁(フチ)が付いている空だ。
そしてもし、窓に 色のついたガラスでも嵌められていたら、その時は 空にもその色が付いてしまう。


宗教とは、家のなかから完全に出てくることだ。

〈現実〉を、 窓や扉越しに見るのではなく、 ガラスを通したり、 考えを通して見るのではなく、 ただ、 単純に そのあるがままを見ること、マインドを 脇に置いて見ることだ。


でもあなたには これがむずかしい。
あまりにも ぴったりマインドと 一体になっているので、マインドとは脇に置けるものだ ということを すっかり忘れている。

しかし、これこそ宗教の手法が 目指していることだ。
ヨーガも タントラも、あらゆるかたちの瞑想も、全て、どうやって マインドを脇に置くか、どうやってマインドと 一体になっているアイデンティティーを壊(コワ)すか、どうやってマインドなしで 見るか、そのための方法以外の何物でもない。

そうして見れば、〈現実〉の内の何であれ、存在するものは ヴェールを脱ぐ。
このことを憶えておきなさい。


ときには宗教は 論理の言葉を話す。
その場合、それは神学となる。
またときには 詩情の言葉で話す。
そのときには それは客観芸術となって表れる。

タージ-マハールが それだ。


初めて タージ-マハールを見るとき、客観芸術というものが何であるか あなたにも解るだろう。

タージ-マハールのような芸術作品を 前にしたら、あなたは ただ坐って眺め 、見る だけだ。

すると急に 静けさが あなたを取巻く。
安らぎが あなたの上に おりてくる。

タージ-マハールの 構成そのものが、あなたの内奥に在るものと 関わるのだ。
その形を ただ見ているだけで、あなたのなかの 何かに 変化が起きる。


芸術には 二つのタイプがある。

一つは 主観芸術で、たとえば ピカソの芸術がそれだ。
ピカソの絵を 見ていると、ピカソという人は どんなタイプのマインドの人だったかがよく分かる。
なぜなら彼は、自分のマインドそのものを描いているからだ、彼は 悪夢を生きていたのに ちがいない。
彼の絵は すべて悪夢的だ。

彼の絵を 長い間 見ていると、気分が悪くなったり吐き気がしてくる。

彼が色彩のなかに描いたのは 彼の内なる狂気だ。
そして、その狂気には伝染性がある。
これが 主観芸術だ。


それが何であろうと、絵であろうと 彫刻であろうと、あなたが 自分の内なるものを表すとしたら それは主観芸術だ。


客観芸術では、個人のマインドは 持ちこまない。
ただ、見る人を変えてしまうような、瞑想に導くような いくつかの客観的な法則に従って創られる。

東洋の芸術はすべて、客観的であろうと努めてきた。
芸術家個人は 作品内部に関わらない。
絵かき個人は忘れられ、彫刻するその人は 忘れられる。
建築家も忘れられる。

彼らは 自分たちを 作品のなかに巻きこまない。
彼らが芸術品を創るときには、あるいくつかの客観的法則に従うだけだ。

そして何世紀にもわたり、その作品を見るたびに、見る人の内側に 瞑想的な何かが起こる。


満月の夜、タージ-マハールの近くに座り、黙って、ただ静かに瞑想する。
時が消え、時のない瞬間が起こる------と、突然、タージ-マハールは そこ外界にはなく、あなたの内側で何かが 変化していく。


マインドが作り出すこの世界に〈現実 リアリティ〉を もたらすため、ときどき宗教は 客観芸術を通じて語る。
ときには論理を通じて語る。
そのときには それは神学となり、そこに議論がうまれる。
しかし どちらの場合も、この世界との妥協にすぎない。

ごく普通の凡庸なマインドとの妥協だ。
普通のマインドのなかに 宗教をもたらすための妥協だ。


宗教が 純粋に それ自身の言葉を話すときには、あの老師の 道徳経のように逆説に満ちたものとなる。
ヘラクレイトスの断片的な言葉や、ここに取り上げている禅の逸話なども同じことだ。


宗教が 純粋にそれ自身であるときには、論理と想像の両方を超越する。
宗教は その越えたところ、彼方(カナタ)そのものだ。


では この彼方そのものについて 少し話そう。
そうすれば この逸話に入っていけるだろう。


この逸話は小さい。
まるで 一粒の種のように小さい。
しかし もしあなたが、ハートを 種のための土壌にするなら、それは 大きな木に成長することができよう。


小さい。
形だけを見たら本当に ちっぽけな話だ。
だが あなたに もし、その内に秘められた 形なきものを 見ることができたら、それは無限になる。
それは 永遠になる。


さてこの〈彼方〉に ついてだが、自覚しておいてほしいことがある。


まず、この〈彼方〉は、あなたの 内的な変身を要求するということだ。
あなたが変わらない限り、あなたは それを理解することはできない。
あなたは自分の内部に知覚をもつことが必要になる。


それは知性だけの問題ではない。
天才だからといって 理解できるとは限らないし、かと思うと、ごく普通の村人が理解できるかもしれない。

ときには、アインシュタインのような人でも それを見逃してしまう。
なぜなら これは、 賢さ、 聡明さとは 関係ないものだからだ。

明晰さが 大事なのであって 賢さではない。


明晰というのは 賢さとは違う。
賢い というのは〈現実 リアリティ〉に対して ずる賢いということで、賢さとは ずる賢さのことだ。


明晰ということは 全く違う。
それはずる賢さではなく、子どものような 純真さのことだ。

マインドをもたないで 窓を開け放つ、何の考えも想いも もたないで。


想念でいっぱいのマインドは 明晰さを失う。

それは雲でおおわれた空のようなもの。
考えでいっぱいのマインドは 透明ではない。
それは ゴミ捨て場だ。

ゴミ捨て場を通しては、あなたは〈現実〉が何かを 認識できるようにはなれない。

まず自分自身をそうじして きれいにすることが必要だ。
深いところまでの洗濯が必要だ。


多くの瞑想を通り抜けていかねばならない。
そうすれば、やがて あなたのマインドも、雲一つない青空のように明るく澄んでくる。

だから これは知的な理解の問題ではなく、違ったタイプの 存在の在り方の 問題なのだ。
澄んだ空のような、澄んだ 在り様で 在ることだ。


次に憶えておいてほしいのは、宗教的な人のマインドは、こ の 瞬間を けっして飛び越えて行かないということだ。

この瞬間を飛び越えたら、そのときから あなたはマインドを通して動き始めたことになる。


未来は ここには ない。
だからどうやって未来を見られる?

考えることが できるだけだ。
未来は 考えることだけは できるが、見ることはできない。

見ることができるのは 現在の瞬間だけだ。
この瞬間は すでにここに在る。


だから、宗教的なマインドは この瞬間の内に生きる。


宗教的なマインドに この瞬間を飛び越えさせようとすることはできない。

宗教的なマインドが 未来について考えたら、 その瞬間、もう宗教的でなくなる。
たちまちマインドの質が 変わってくる。

宗教的なマインドというのは 今ここに存在する。
そして、
それだけが 唯一の在り方だ。


あなたがもし、未来のことを、ここにない時間のことを 考え始めたら、あなたは もうすでに、マインドの仕掛けた ワナに はまったのだ。

あなたは 思考が形作られるのを 許したことになる。

現在のなかには 思考は全くない。


こんな観察をしたことがあるだろうか。
今この瞬間、思考は どうやって存在できる?


現在 という時点には 思考は一切存在しない。
思考は 常に、未来か 過去のどちらかのなかで存在する。

過去のことを考えるかーーーその場合には想像がある。
それとも未来のことを考えるかーーーその場合は論理がある。
その どちらかだ。


現在を どうやって考えることができる?
現在においては、あなたは た だ 在 る だけだ!

そしてこの瞬間は とても繊細で、とても小さい。
原子のように小さい。

だから、思考が 存在する余地は 全くない。


思考は 空間を必要とする。
部屋が要る。

そして 現在のなかには 思考のためのスペースはない。
その内には 在 る ということしかない。

ゆえに、 あなたが現在に在るときには 必ず考えることは止まる。
あるいは こう言ってもいい。
あなたが考えることをやめれば、あなたは 現在に在ることになる。

宗教的なマインドは 未来について気にかけないし、過去に何があっても 気にかけない。
この瞬間の内に生き、瞬間から瞬間へと 動いていく。
この瞬間が消えるときには、次の この瞬間がくる。
宗教的な人は もうそのなかに動いていっている。
河が 流れてゆくように。


4️⃣へ つづく