saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

ダイヤモンド-スートラ OSHO 金剛般若経を語る 04



第七番目ーーー
仏陀は、マインドを 夢として考えよ、と言う
それは想像であり、主観的であり、自分自身が創り出したものだ
あなたは その演出家であり、そして役者であると同時に 観客でもある
あなたのマインドのなかで 進行していることは すべて個人的な想像だ
世界は それとは なんの関係もない
〈存在〉は それを満たす義務は いっさいない


ある医者が患者に
ーーー中年より かなり年配の患者だがーーー
綿密な身体検査を、し終わったばかりだった
「悪いところは ひとつもありませんよ」と 医者は言った
「しかし、性生活の半分は およしになった方がよろしいですな」
老人は 医者を一瞬見つめてから、言った
「どちらの半分です?
それについて 考えることをかね、それとも それについて喋ることをかね?」


マインドは 非実体的だ
考えるか、それとも 喋るかーーー
それは本物を 少しも知らない
マインドを もてばもつほど、それだけ あなたは現実をもたなくなる
マインドが 少なくなればなるほど、それだけ現実が増す
ノーマインドは、現実であるものーーータタター ーーーを知っている
そうなったら、あなたは 如来ーーー如性を知った者ーーーになる


あるいは、マインドを 稲妻のきらめきとして考えよ、と仏陀は言う
それ に固執してはいけない
なぜなら それに固執した瞬間、あなたは自分で 苦しみを創り出すからだ

稲妻は つかのまだけ そこにあって、消える
あらゆるものが 来ては去る
何ひとつ とどまらない

そして私たちは固執しつづける
固執することによって、私たちは 不幸を 生み出しつづける


あなたのマインドを 見まもるがいい
それは、いかに何にでも 固執する用意ができていることか
マインドは、いかに未来を、変化を おそれていることかーーー

それは あらゆるものを固定することを 望む
それは 起こるものすべてに 固執したがる

あなたは幸福だ
あなたは その幸福を とどめたい
あなたは それに固執する
固執した瞬間、あなたは すでにそれを押しつぶしてしまっている
それは もうそこにない


あなたは ある男性あるいは女性に出会って、恋をする
そしてあなたは 固執し、その恋が 永遠に とどまることを望む
まさに その瞬間
ーーーその恋は 永遠に続くべきだと望む まさにその瞬間ーーー
それは 消える
それは もうそこにはない
マインドの体験は すべて稲光のようなものだ
それらは 来ては去る


仏陀は言う、ただ見まもれ、と
しがみつく時間はない!
ただ見まもり、留意しなさい
「頭痛、頭痛」「愛、愛」「美、美」ーーー
ただ 留意しなさい
それで充分だ
それはあまりに 短い瞬間だから それ以上のことは何もできない
留意し、自覚しなさい
自覚(アウエアネス)が あなたの 永遠性になりうる
それ以外の何ものも なりえない


そして最後のもの、第九番目ーーー
仏陀は、マインドの体験を 雲として、形を変えながら 流れる雲として考えよ、と言う


あなたは 雲をながめる……
ときとして雲は 一匹の象のようにみえる
そして、それは たちどころに変わりはじめ、ラクダや馬や さまざまなものになる
それは 変わりつづける
それは けっして固定的ではない
非常に多くの形が現れて、消える

しかし、あなたは心配しない
雲が 象にみえるか、ラクダにみえるかが、あなたにとって どんな問題になる?
それは たいした問題ではない
ただの雲だーーー
マインドも そうだ

あなたの 意識の まわりの雲だ
意識は 大空で、マインドは 雲だ
ときとして、それは 怒りの雲だ
ときとして、それは 愛の雲だ
ときとして、それは 貪欲の雲だ
しかし、これらは 同じエネルギーの さまざまな形態だ


選ばないことだ
執着しないことだ
雲の象に執着したら、あなたは 惨めになる
次の瞬間には その象が 去っているのを見る
そして、あなたは叫ぶ、あなたは泣く
だが、いったいだれに 責任がある?
雲に 責任があるのだろうか?
雲はたんに その本性に従っているだけだ

憶えておきなさい
雲は 変わるために そこにある
マインドも そうだ


あなたの 内なる大空から見まもりなさい
そして 雲を漂わせなさい
ただ 見まもる人に なることだ

そして 憶えておきなさい
雲は往来するが、あなたは 無関心のままでいることができる、ということをーーー


仏陀は〈無関心〉に非常に 重要な価値を与えた
彼は それを ウペクシャと呼ぶ
無関心のままでいなさい
それはたいした問題ではない


ーーー(略)ーーー

すべてが形を成す
人は これらの形を 気にかける必要はない
ただ 見まもることだ


マインドを このようにみなしなさい

  星 眼の瑕 燈火
  まぼろし 露の玉 水泡(うたかた)
  夢 稲妻のきらめき 雲ーーー
  条件づけられたものを
  このように見るがよい


そうすれば 条件づけは消える
そして、あなたは〈無条件なるもの〉に達する
その〈無条件なるもの〉が、 如性、 真理、 真実(リアリティ)、 ヤター-ブータムだ


さて、経文(スートラ)だ

  世尊は問われた
  「どう思うか スブーティよ
  『私によって法が教え示された』
  という考えが如来に起こるだろうか?
  誰であれ スブーティよ
  『如来は法を教え示した』
  と言う者は虚言を弄している
  彼はそこにないものを捕らえて私を誤り伝えている
  何故か?

  それは ほんの少しの法でさえも
  そこに見出されず 得られないからだ
  だからこそ
  それは『無上の 正しい 完全な〈光明〉』と呼ばれる

  さらにまた スブーティよ
  その法は自己一致的であり
  そこにおいては何も不一致なものはない
  それゆえに
  『無上の 正しい 完全な〈光明〉』と呼ばれる

  『無上の 正しい 完全な〈光明〉』は
  自己 生けるもの 魂 個人がないということによって
  自己一致的で平等であるから
  あらゆる善き法の総体として 完全に知られているのである」


仏陀は言う

  どう思うか スブーティよ
  『私によって法(ダルマ)が教え示された』
  という考えが如来に起こるだろうか?

それは タターガタには起こりえない
なぜなら、彼の内側には もはや個人は存在しないからだ
個人性は マインドのひとつの形態だ
〈私〉という観念は 雲の ひとつの形態だ
タターガタにとっては、雲は消えている
そして、定義不可能で 無限の、純粋な空だけがある
〈私〉という観念は いっさい浮かばない


だから、タターガタは「私はダルマを教え示した」とは言えない
第一に、彼は いない

第二に、自分が消えたがゆえに、いまや彼は誰もいないことを 知っている
たとえば、あなた方は みんな 今夜寝入って、みんな 夢を見はじめる
誰かが 何かを言い出し、誰かが うめき出し、誰かが 叫び出す

そして目覚めている人が ひとりーーー
その人は どう思うだろう?
彼は あなた方を笑う
なぜなら、彼は 夢は夢にすぎず、現実ではないと 知っているからだ


ある人は うめいている
ある人は 泣いている
ある人は 叫んでいる
ある人は 感極まっている
ある人は 笑っている
ーーーそして彼は すべてが偽りだと 知っている
そこに 笑うべき どんな根拠もなく、涙すべき どんな根拠もない
すべては 偽りだ
人々は眠っている
彼は 泣き叫んでいる人の所へ行って「泣かないで」と 慰めようとはしない
彼は 誰かが笑っているからといって 楽しく感じようとはしない
彼は、彼らが 夢を見ている ということを知っている


それが タターガタの、ブッダの状況だ
自分の 内なる大空を 知った者は
いまや、誰もがその大空でありながら、誰もが 雲に覆われていることを 知っている
そして その雲は 偽りであり、空想的なものだ
その雲が 偽りで空想的だとしたら、それらの存在はいっさいない

いったい誰に対して、タターガタはダンマを教示することができよう?
そこには誰もいない、あるのは 純粋な大空だけだ
あなたが消えた瞬間、あらゆる存在が消える
そうなったら、もう分離した存在というものはなく、すべてが ひとつだ
マスターのような者もなければ、弟子のような者もない


だから私は 先日 あなた方に言った
これは私たちが ここで演じているゲームであり、大いなるドラマだ、とーーー
それは 何度も上演された、いにしえのドラマだ

仏陀と その弟子たち
キリストと その弟子たち
クリシュナと その弟子たちによって 何度も演じられてきた、いにしえのドラマだ
その同じドラマが 演じられている


あなた方の側からすれば、それは非常に 現実的なものだ
私の側からすれば それはただのドラマだ
あなた方の側では 弟子であることは深刻なことだ
私の側では 深刻でも非深刻でもなく、それは たんに雲にすぎない
ここでの 私の全努力は
あなた方が それは雲ーーー雲の形成物ーーーにすぎないことを 見る助けをすることだ
そして、あなた方が 目覚めた日には、あなた方は 笑う
なぜなら、達成されるべきものなどないからだ
失うものも達成するものも いっさいないからだ
すべては、そもそもの始めから終わりに至るまで、ずっと あるがままだった
それは 同じままだ


雨季に 雲が集まるとき、大空が変化していると 思うかね?
夏になって 雲が消えるとき、大空が変化していると 思うかね?
大空に 何か変化があると 思うかね?
大空は 依然として同じだ
雲は 来ては去る
サンサーラ、世界、マインドもそうだ


仏陀は言う

  どう思うか スブーティよ
  『私によって法が教え示された』
  という考えが如来に起こるだろうか?
  誰であれ スブーティよ
  『如来は法を教え示した』
  と言う者は虚言を弄している
  彼はそこにないものを捕らえて私を誤り伝えている


私も あなたも いない
マスターも 弟子も いない

「すべては あるがままに在る」と 教え示すものは いっさいない
教えるべきものも、学ぶべきものも いっさいない


  それは ほんの少しの法でさえも
  そこには見出されず 得られないからだ
  だからこそ
  それは『無上の 正しい 完全な〈光明〉』と呼ばれる


仏陀は、だからこそ それを完全な〈光明〉と呼ぶ、と言う
世界には、〈光明〉の観念が「完全な」とは呼ばれえない 他の宗教がある
たとえば キリスト教の 三位一体の観念だ
神と 子と 精霊ーーー
それは、究極に至っても、三つの区別、三つの分裂があることを意味する
それは なんらかの雲が保たれていること
なんらかの形、形式が 保たれていることを意味する
わずかだが 依然として「世界」が続いている
マインドが まだ完全には落とされていない

ヒンドゥー教の観念は もう少し良い
残るのは ただ二つだけーーー神と 魂だ
三つよりはましだが、まだ 二つが、二元性がある
二元性は すべてマインド的なものだ
物事を 分離するのはマインド、定義づけするのはマインドだ
だから これも完全な〈光明〉ではありえない

ジャイナ教の観念では ただ ひとつのものだけが残る
ーーー魂だ
この方が さらにいい
キリスト教よりも、ヒンドゥー教よりもいい
残るものは ただひとつーーー魂だ


しかし、仏陀は それもまた 完全な〈光明〉ではない と言う
一つを考えるためには 必然的に 二、 三、 四、五のことを考えなければならないからだ
ただ「一つ」と言うだけで、全数列を 持ちこむのにじゅうぶんだ
「一」が 定義されたら、必ず「二」を そのなかに持ちこむことになる
「一」と言うことは どういう意味か?
あなたは「不二」と 言わなければならない
だから、「一」は 少なくとも、その定義づけのためには「他」を 必要とする
その「他」は依然として どこかに隠されている
それは まだ完全には 消えていない


もし私が そこにいるとしたら、そのときには あなたも そこにいる
それは完全には 消えることはできない
「私」 は「あなた」を必要とする
「私」自身が 完全に存在するためには、「あなた」 が 必要だ
「私」は「汝」と 二つ一組でしか存在しない
この二つは 共に在る
「我---汝」は ひとつの現実だ


そこで、仏陀は「私」も 消えなければならないと言う
そうなったら 三位一体はすべて消える
究極の体験においては、三も 二も 一も ない
それは 純粋な大空だ
無、非在、非実体だ
それは ゼロ、シュンニャータ(空)だ

だから仏陀は 言う
それは「無上の 正しい 完全な〈光明〉」だ


  さらにまた スブーティよ
  その法は自己一致的であり
  そこにおいては何も不一致なものはない
  それゆえに
  「無上の 正しい 完全な〈光明〉」と呼ばれる

  自己 生けるもの 魂 個人がないということによって
  自己一致的であるから……

あらゆる形象は 消えた
だから大空は 大空自身と一致している、大空そのものに なっている
もはや現れたり消えたりする形、動きはいっさいない
夢は すべて消えた


朝がきて、太陽が昇り、人は 目覚める
そこには 目覚めはあるが、「私は目覚めている」と 言える者は まったくいない
そこには 教えはあるが、「私がその教師だ」と 言える者は ひとりもいない
そこには 道はあるが、ほとんど道はないにひとしい
方法(メソッド)ーーーしかし 方法(メソッド)とは 呼ばれえない
マスターと弟子ーーーしかし それは弟子の側からだけだ
マスターの側からは、すべては消えている


05へ つづく