saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第一章 「涅槃(ニルヴァーナ)の境地」 (01)

1,
あるとき このように私は聞いた

世尊は シュラーヴァスティーに住んでおられた
朝早く 世尊は衣をまとい
長衣をつけ 鉢を手にすると
施しを集めるために
大いなるシュラーヴァスティーの都へ入って行かれた


食事が終わり 行乞から帰ると
世尊は 衣鉢(えはつ)を収め 両足を洗い
設けられた座に坐り
両足を組み
体を真直ぐに伸ばし
心して前面に注意を据えられた
すると 多くの僧たちが世尊の許に近づき
御足を頭に頂く礼をとり
世尊のまわりを右回りに三度まわって
かたわらに坐った



2,
そのとき 長老スブーティが その集まりに来て坐った
それから 彼は座から立ち上がり
上衣を一方の肩にかけ
右の膝を大地につけ
合掌して 世尊を拝して言った
「おお世尊よ すばらしいことです
おお善逝よ まことにすばらしいことです
いかに多くの 菩薩(ボーディサットヴァ) 偉大な存在が
如来(タターガタ)の最高の援助によって助けられていることでしょう
さて 世尊よ
菩薩の乗物で旅立つ者は
いかに立ち いかに進み
いかに思考を制すればよいのでしょうか ?」


このような言葉のあとで
世尊はスブーティに こう言われた
「それゆえに スブーティよ
よく 注意深く聴きなさい」


3,
「菩薩という乗物で旅立った者は
このような想いを起こさなければならない
『生けるものの世界に在るかぎりの
生けるものという言葉に含められるかぎりの生きとし生けるものーーー
それらのありとあらゆるものを 私は涅槃(ニルヴァーナ)へ導かなければならない
何ひとつあとに残さないあの涅槃の境地へ・・・
しかし 無数の生きとし生けるものが
そのように涅槃へ導かれたにもかかわらず
いかなるものも涅槃へ導かれたことはない』
何故か ?
もし菩薩のなかに『生けるもの』という想いが起こったとすれば
その者は『菩堤の存在』とは呼ばれえないからだ
何故か ?
自己という想い
生けるもの(存在者)という想い
生ける魂という想い
個人という想いが起こる者は
『菩堤の存在』と呼ばれるべきではないからだ」 (第一章 経文 了。)



私は ゴータマ・ブッダを愛する
なぜなら、彼は私に 宗教の本質的な核心を 示しているからだ

彼は 仏教の創始者ではない
ーーー 仏教は副産物だ ーーー
だが、彼は この世でまったく異なる種類の宗教を 始めた人だ
彼は 宗教なき宗教の 創始者
彼は、宗教ではなく、宗教性を提起した
そして、これは 人間意識の歴史のなかで偉大な 根源的変化だ


仏陀以前にも 宗教はあったが、純粋な宗教性は まったくなかった
人間は まだ成熟していなかった
仏陀と共に、人間は 成熟期に入ってゆく
人類が かならずしも みな成熟期に 入ったわけではない
たしかにそのとおりだ
だが、仏陀が その先駆けとなった
仏陀が 門なき門を 開いた
人類が このような深いメッセージを 理解するためには時間がかかる

仏陀のメッセージは これまであるもののなかで最も深い
仏陀がしたような仕事、彼がしたような やり方、それをなしとげた者は誰もいない
誰も 純粋な香りを 放っていない


ほかの宗教の創始者たち、ほかの光明を得た者たちは、聴衆に妥協してきた
仏陀は 妥協しないままだ
それゆえの 純粋さ ーーー
彼は あなたが何を理解できるか気にとめない
彼が気にとめるのは 真理とは何かということだけだ
そして彼は、あなたが理解するかどうか心配せずに、それを 言う
ある意味では これは厳しくみえるが、別の意味では これは大いなる慈悲だ


真理は あるがままに 言い表されなければならない
あなたが 妥協する瞬間
あなたが真理を 人間意識の通常のレベルに持ってくる瞬間
それは その魂を 失う
それは 表面的になる
それは 死物になる
真理を 人間のレベルに 持ち込むことはできない
人間が真理のレベルに 導かれなければならない
それが 仏陀の偉大な仕事だ


二十五世紀 前
ある日、朝 早くーーー
ちょうど 今日のような日に、この経典(スートラ) が 誕生した



(01)終わり・・・(02)へ 続く