saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章 「〈光明〉の味 」 (19)


“ 世尊は問われた
スブーティよ どう思うか
「無上の 正しい 完全な〈光明〉」として
如来がよく知っている法があるだろうか ? ”


これは仏陀の 方法のひとつだ
彼は ときどき弟子たちに訊ねている
「スブーティよ、どう思うか
私が 真理を、法を達成しただろうか
あるいは私が 真理を人々に 説いただろうか
それについて おまえは どう思うか ?」


“「無上の 正しい 完全な〈光明〉」として
如来がよく知っている法があるだろうか ?
あるいは如来が教え示した法が何かあるだろうか ?
スブーティは「いいえ」と答えた ”


仏陀の かけた罠は 非常に陥りやすかった
その問いは むつかしかった
その問いは「然り」と 答えかねないようなものだった

「然り、仏陀は達成しました
さもなければ 誰が達成したというのでしょう ? 」

だが その 達成という観念そのものが 霊的精神的(スピリチュアル)な ものではない
仏陀は 達成すべきものは何もなく、達成する人は 誰もいない、と言っている


スブーティにとって、こう言おうと思えば それはごくごく簡単なことだっただろう
「そうです、世尊よ
あなたは、 誰も説法しなかった、 と 説法なさいました
あなたは、 誰も教え示さなかった、と 教え示してくださいました」

だが、達成すべきものがないとしたら、そこに 教え示すべき 何が ありうるだろうか ?

達成するものも 達成する人もなければ、誰がそれを教え示し、何を教え示すのか ?

しかし スブーティは 仏陀の問いに だまされなかった


“ スブーティは答えた
「いいえ
私が世尊の言われたことを理解するところによると
そうではありません
何故でしょうか ? 」”


それには 次のような意味がある
「〜によって 高揚せられる」、「〜によって 栄光を与えられる」
「〜から 自分の力を 引き出す」、「〜に 自分の光を負う」
月が 太陽の光を映すこと、それが プラバーヴィタだ
それは ただひとつの 鏡だ
ブッダも またしかり
ブッダは 空っぽの鏡だ

彼はただ、〈存在〉を あるがままに 映すだけーーーヤター・ブータムだ

彼は 何も言わない
鏡は 何も言わない
鏡は 言うべきことは 何もなく、ただ単純に 映しだすだけだ

それは あるがままのものに対して 何もしない
それは単純に、〈あるがまま〉ーーー ヤター・ブータムを 映し出す

仏陀のなかに、存在全体が 映し出されている

絶対なるものが 高まり、絶対なるものが 映し出されている

仏陀が 何か しているわけではない


真のマスターは まさに鏡だ
彼は 単純に あるがままのものを 映す
彼には 説くべき哲学 は なく、差し出すべき 教義もない
〈存在〉が 彼の哲学であり、〈生〉が 彼の教義だ

彼には 骨を折って教えこむようなものは 何もない

彼は どこであろうと 動機をもたない

彼自身が存在していないのだ

それだからこそ彼は「鏡」に なった



(19)終わり・・・(20)ヘ 続く