saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第11章 : 光、生命、そして愛 (23)

( 宗教は言う「その依存 −−− 時間への依存さえも必要としない 何かを見い出すために、より深い次元へと 入っていかねばならない」と )

 

我々には、それは無意味に見える。

媒体なくして、どうやって光が進めるのか ? 

しかし現代における科学は、進める と言っている。

その通りだ。

宗教は 言う「心配しなくていい。 どうやって時間なくして神が存在できよう ?」と。

神は存在する、神は 時間がなくても活動できる。

意識は、時間がなくても活動できる。

 

科学の測定の限りでは、速度が最も速いのは 光だ。

しかし それは、ある意味において 最も速い ということだ。

存在が もっと速いかどうかは、わからないからだ。

実際、存在は 時間なくして進む。

だから、速さは問題にならない。

存在は 一秒間にどれだけの距離を進む、とは 我々には 言えない。

存在の動きは、絶対的に絶対なるものだ。

そこには 時間のギャップは 存在しない。

そして その輝きのなかに入ったとき、人は 引きつけられる。

「引きつけられる」という言葉を遣うことでさえ 時間の存在を表している。

が、「引きつけられる」現象そのものに 時間は いらない。

私が「引きつけられる」と言うのは、時間が かかる、時間を ロスしてしまう という意味だ。

が、実際、人が 輝きのなかに入っていったとき 

それだけの時間でさえ 必要ない。

そこに 時間のギャップは 存在しない。

 

あなたは 引きつけられる。

そして、その光の向こうには 神が、寺院が 存在する。

その光は、ただ あなたを浸し 

ちょうど 火のように あなたを清める。

あなたは 浄化される。

そして、あなたが 浄化されたとき 

光のなかに入ること、爆発が 起こる。

その光のなかに入ることで、あなたは 不死となる。

が、それでも あなたは 感じる。

自分は、今、不死性のなかに入った、と。

が、「彼方」、「在ること」のなかに入れば 

自分が 不死であることに 気づきさえしないだろう。

もはや 生と死は 無意味になった −−− ただ 実存だけがある。

あなたは 在る、どんな条件付けもなく。

その「実存」が 宗教の究極のものだ。

 

光は フィールドであり、マインドは その周りにある。

なのに、我々は マインドの周りに いる。

我々は マインドの 外側に住んでいる。

だから、マインドの中に 入らなければならない。

次に 光の中、次に 神の中に。

 

だが、我々は ただ マインドの周りを 

堂々巡りしているだけだ。

 

この、常に 家の外にいる状態が 

いつもの 習慣に なっている。

我々は、自分達が ベランダに 住んでいることを 忘れてしまった。

 

 

(23)終わり…(24)へ 続く