saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第11章 : 光、生命、そして愛 (10)

(…そして、全てのカルマが 消え去ったとき −−− 

私が言う「カルマ」とは、行為、欲望、情欲を通して 人が蓄積してきた 物質界の汚れのことだ −−− )

 

それが消え去ったとき、エゴの実体、核心も また消え去る。

エゴは 全ての不純、全ての汚れ、全ての埃の集合としてのみ存在するからだ。

エゴは 一つの中心として存在する。

だから その全てが 消え去ったとき、エゴは 消え去る。

そして エゴが消え去ったとき、あなたは純粋になり、きれいに なり 新生する。

 

だから 内なる光の中に入る とは 

内なる 火のなかに入る ということだ。

 

もうひとつ、外側の光は 一定だ。

だが、あなたにとっては 一定ではない。

 

太陽は 昇り、沈む。

が、太陽自体は 決して昇りもしなければ、沈みもしない。

しかし地球から見れば、太陽は昇り、沈む。

そして 夜がやって来る。

外側からは、絶えず光のなかに 留まることはできない。

だが 内なる光は、昇ることも 沈むこともない。

 

だから 経文 曰く『絶えず統一していること』

 

そこには 夜もなければ、沈むこともない。

昇る ということが ないからだ。

光は あなたの実存として 

あなたの まさに存在そのものとして、そこに ある。

だから、その光の内に 絶えず統一していること 

それが 沐浴だ。

 

そして「沐浴」とは、人が執着してきたもの全てが 

完全に 破壊される ということだ −−− 

ただ 破壊されるだけではなく 

また 変容される ということだ。

それらは光そのものになる。 その入口には 三つある。

 

第一に、あなたは 光を 実感する。

そして 自分の魂が、実存が 深く清められたと わかる。

三つ目は、その光が 万能薬であること、果実であること −−− 蜜 −−− 不滅性 −−− 、光の不死性を 悟る ということだ。

一度 エゴがなくなれば、死がなくなるからだ。

一度 カルマが 洗い流されてしまえば、不死に なる。

一度、生より深い次元に 入っていけば 

あなたは 不死になる。

生より深い次元では、死は 存在できない。

死は、生と並行して存在する。

それは 生の終わりを意味する。

 

だから、生には 二つの次元がある。

ひとつは ただの 水平線上のもの。

あなたは 生の 一つの瞬間から 

生の もう一つの瞬間へと進んで行く。

そして、もう一つへと −−− A−B−C −−− 

ひとつの連続のなかで。

そして最終的には、Zが 死になる。

あなたは、AからB、BからC、

そして X−Y−Z と進んで行く。

Aは 誕生であり、Zが 死だ。

あなたは、A−B−C−Dと 水平に 動いて行く。

それが 一つの動きだ −−− 誕生から 死へ。

 

ブッダ 曰く

「生まれた者は 死なねばならない。 なぜなら、彼は 水平に進んでいるからだ」

 

だから、水平に進んでいけば 死は必然的だ。

しかし、あなたは 垂直に 動ける。

AからBへ 進む代わりに、Aの下に 降りていくか、Aの 上に昇っていくかが 可能だ。

だから、Bへと 進むのではない。

どんな生の瞬間からでも、二通りの動きが できる。

あなたは もうひとつの次元の動きもできる。

そうすれば、死が その終わりになるだろう。

あなたは自動的に、知らずして 死に向かって進んでいる。

あなたは 落ちて行くことも、上へ昇って行くことも 

できる −−− 水平ではなく、垂直に 進むことができる。

だから、Aから 下へ降りるか、上へ昇るか することだ。

 

そうすれば、あなたは生から光へと移行する。

もし 下へ降りたら光へ進むし、上へ昇れば愛に進む。

それが 垂直の動きだ。

たとえ 生から下へ降りるにしろ、光へ進むことになる。

上へ行けば、愛へと進むことになる。

両方の動きが 不死の扉を与えてくれる。

死は ただ、水平の動きを 意味しているにすぎない。

もう、あなたは水平に 動いていない。

上か下か、どちらかに 進むことだ。

もし あなたが意識的に 光へと降りていけば、生は愛になるだろう −−− 一度、不死を知れば、愛 以外の何ものでもなくなってしまうからだ。

 

 

(10)終わり…(11)へ 続く