saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「心理学を超えて」by OSHO (04)

…( ドレスは 足を覆い隠すように 作られていた。
足を見ることはできなかった )

ほんの 百年前ですら、王室の女性たちは 二本足ではない、と 信じられていた。
王族は 普通の 一般の人間とは どこか違っていなければならなかったし、誰も それを見たことがなかったーーー見る可能性は まったくなかったーーー彼女たちの脚が 二本に分かれているかどうかなど。


だが エゴは・・・王室の人々も「それは 馬鹿げている。私たちは あなた方と同じ人間だ」と はっきりさせなかった。
エゴが 彼らの邪魔をした。

人々が 彼らをより高い台座に置いているのなら、なぜ悩むことがある ? ・・・ただ 王族のままで いればいい。
結婚して 王室に入ることを 民間人の誰にも許さなかった理由の一つが それだった。
なぜなら、その人が 事の全体を 暴いてしまうかもしれないからだ。
「この人々は他のみんなと おなじ ただの人間だ。彼らには 王族的なものは 何もない」
しかし 何世紀ものあいだ、彼らは その考えを持ち続けた。


私もまた、あなたに 動物とは違っていてほしいと 思っているが、自然より 上に行けるという意味ではないーーーそうではない。

あなたは 自然の中へ もっと深く入って行けるし、動物たちより 自然になることができる。
彼らは 自由ではない。
彼らは 深い昏睡状態にあり、自分たちの祖先が 何千年にも渡って してきたこと以外には、何も できないのだ。

あなたは どんな動物よりも 自然でいることができる。
自然の 底知れぬ深みにまで行けるし、自然の まさに頂点まで 行くことができる。

だが、どんな方法であっても 超えてゆくことはないだろう。
あなたは もっと 自然になり、もっと多次元的に 自然になってゆくだろう。


私にとって 宗教的な人とは、自然より 上位にいる人ではなく、全面的に自然な、完全に 自然な人、そのすべての次元で 自然を探求してきた人、探求していないものを 何も残していない人のことだ。

動物たちは 囚われの身だ。
彼らには 存在の領域に 一定の制限がある。
人間には 能力が、知性が、探求する自由がある。
そして、もし自然を 全面的に探求したなら、あなたは 我が家に 帰ってくる。
自然が あなたの 我が家だ。

そのとき、死は 喜びであり、祝祭だ。
そのとき あなたは 何の不平もなく 死ぬ。
深い感謝をもって 死ぬ。
生はあなたに 非常に多くのものを 与えてくれたのだし、死は 単に、あなたが生きたものすべての 最終的な頂点であるからだ。

それは ちょうど、蝋燭の炎が消える前に 最も明るく燃えるようなものだ・・・。
自然な人間は、死ぬ前に、しばらく最も輝かしく 生きる。
彼は すべて光であり、すべて真理だ。

私にとって これが自然な死だ。

だが、それは 獲得されなければならない。
それは あなたに 与えられていない。
その機会は 与えられているが、あなたは探求しなければならないし、獲得しなければならない。
あなたは それに値しなければならない。

真正な人の死を 見ることでさえ、彼が死にかかっている間に ただ その近くにいるだけで、あなたは突然、奇妙な喜びに 満たされるだろう。
あなたの涙は 悲しみの 嘆きの涙ではない。
それは 感謝と至福のものだろうーーーなぜなら 人がその生を 完全に生きて自然に死ぬとき、彼は自らの存在を 自然全体に広げるからだ。
その場に 居合わせ、彼のそばにいる人たちは それを浴びる・・・突然の すがすがしさ、そよ風、新たな芳香に、そして 死とは 悪いものではない、死とは 恐れるべきものではない、死とは 獲得されるべきもの、受けるに値すべきものだ という 新たな感覚に浴びせられる。

私は あなたに 生のアートを教える。

だがそれは 死のアートと 呼ぶこともできる。

それらは 両方とも 同じだ。



質問:「自然な死とは 何ですか ? (04) 」終わり