(…なぜなら、「神」と「存在する」という言葉は 同じ意味だからだ。
テーブルが ある、と言うのはいい。 が、神は存在する というのは良くない )
人間は 存在する、そう表現できるのは
人間は 存在しないかもしれないからだ。
人間が存在する ということは
二つのことが 一つに 結び合っている 表現だ。
それらは 分けられない。
が、神は存在する というのは 適切な表現ではない。
神とは「在る」ということを意味しているからだ。
だから、神が在る という 言い方は
同じことの繰り返し、重複だ。
「神が在る」という表現は、「在るが在る」、あるいは「神が神」と 言うのと同じ位、不条理な表現だ。
それらは 意味がない、馬鹿げている !
「在ること」が 神だ。
だから、宗教では まだ、さらに少ない言葉で、神を意味する表現をしている。
あなたが光のなかに入ると、「在ること、 存在、 彼方」の なかに入るだろう、といった表現を使う。
光とは「彼方」の オーラのことだ。
あなたが 光のなかに入ったとき、そのオーラのなかに 入る。
そして、そのオーラのなかに 入った瞬間
あなたは 引きつけられる。
そこには 時間のギャップがない。
時間の ギャップは ない !
それから もうひとつ。
光は 最も速いスピードで進む と 私は言った −−−
一秒間に 十八万六千マイル(三十万㌔)の 速さだ。
一秒間に、 一分間に、 一時間に、 一年間に、
どれだけの距離を 進むことになるだろう !
物理学が 光の進む距離をはかる単位を、光年という。
だから、一光年というのは、光の速度で 一年間に進む 距離を意味する。
それはまだ 時間の動きだ。
非常に 速い、でも、まだ光は 進むのに時間を要する。
だから私が「光は媒体を必要としない、光には乗り物はいらない、光は 外から借りてきたエネルギーを必要としない」と言う時 −−− それでも まだ、時間は必要だ ということだ。
宗教では、光は それなしでは進めない何かを必要とする。
それは、光が まだ時間に依存している という観点に立っている。
宗教は言う
「その依存 −−− 時間への依存さえも必要としない 何かを見い出すために、より深い次元へと 入っていかねばならない」と。
(22)終わり…(23)へ 続く