saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第11章 : 光、生命、そして愛 (22)

(…なぜなら、「神」と「存在する」という言葉は 同じ意味だからだ。

テーブルが ある、と言うのはいい。 が、神は存在する というのは良くない )

人間は 存在する、そう表現できるのは 

人間は 存在しないかもしれないからだ。

 

人間が存在する ということは 

二つのことが 一つに 結び合っている 表現だ。

それらは 分けられない。

が、神は存在する というのは 適切な表現ではない。

神とは「在る」ということを意味しているからだ。

 

だから、神が在る という 言い方は 

同じことの繰り返し、重複だ。

「神が在る」という表現は、「在るが在る」、あるいは「神が神」と 言うのと同じ位、不条理な表現だ。

それらは 意味がない、馬鹿げている ! 

 

「在ること」が 神だ。

だから、宗教では まだ、さらに少ない言葉で、神を意味する表現をしている。

あなたが光のなかに入ると、「在ること、 存在、 彼方」の なかに入るだろう、といった表現を使う。

 

光とは「彼方」の オーラのことだ。

あなたが 光のなかに入ったとき、そのオーラのなかに 入る。

そして、そのオーラのなかに 入った瞬間 

あなたは 引きつけられる。

そこには 時間のギャップがない。

時間の ギャップは ない ! 

 

それから もうひとつ。

光は 最も速いスピードで進む と 私は言った −−− 

一秒間に 十八万六千マイル(三十万㌔)の 速さだ。

一秒間に、 一分間に、 一時間に、 一年間に、 

どれだけの距離を 進むことになるだろう ! 

 

物理学が 光の進む距離をはかる単位を、光年という。

だから、一光年というのは、光の速度で 一年間に進む 距離を意味する。

それはまだ 時間の動きだ。

非常に 速い、でも、まだ光は 進むのに時間を要する。

だから私が「光は媒体を必要としない、光には乗り物はいらない、光は 外から借りてきたエネルギーを必要としない」と言う時 −−− それでも まだ、時間は必要だ ということだ。

 

宗教では、光は それなしでは進めない何かを必要とする。

それは、光が まだ時間に依存している という観点に立っている。

 

宗教は言う

「その依存 −−− 時間への依存さえも必要としない 何かを見い出すために、より深い次元へと 入っていかねばならない」と。

 

 

(22)終わり…(23)へ 続く