saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 内なる導き 8️⃣

(…あなたはきっと「すべては良い、自分は祝福されている」と感じるだろう。)


「 “ どうしたら、内なる導き手が 機能しているとわかるでしょう。 ”」


最初のしるしは、心地よさが 現れること、自分に対する 好感情が現れるということだ。

あなたは つねに、自分に対して 悪感情を抱いている。

私が 今まで出会ってきた人間の中で、自己に対して 好感情を持っている人間は、めったにいない。

誰もが 自分を蔑視しており、自分のことを 悪く思っている。

もし 自分のことを 悪く思っていたら、いったい どうして他人から 愛されるだろう。

そして 誰からも愛されなければ、あなたは きっと欲求不満を感じる。

自分でも 自分のことを愛していない。
あなたは 今まで 一度も、愛を込めて 自分の手を触れたことがない。
今まで 一度も、自分の体に 愛を感じたことがない。
今まで 一度も、こんなに美しい体、こんなに すばらしい仕組みを授かったことを神に感謝したことがない。
ただ嫌悪するばかりだ。

そして 諸宗教、いわゆる宗教は、体に対する蔑視を教える。
いわく「体は罪悪の袋だ」と。
それで あなたは 重荷を背負う。



無意識が 解き放たれると、突然、「自分は受け入れられている、自分は悪くない」と 感じられる。

何も 悪いものはない。

生の すべては、奥深いところで 祝福だ。
そこに感じられるのは、自分への祝福だ。

自分への 祝福が感じられるとき、まわりの人々すべては 祝福されている。

みんなが 祝福されている。
それで 自分も幸福だ。

自分自身を罪悪視しているからこそ、自分を 悪く思っているからこそ、他人のことも 同じように思うのだ。


自分自身の体を 愛していなかったら、どうして他人の体を 愛せるだろう。

自分自身の体に 敵対していたら、どうして 他人の体を愛せるだろう。
きっとあなたは、他人の体も 罪悪視するだろうーーー奥底で 罪悪視するだろう。

実際、諸宗教の してきたことは、人々を幽霊にすることだ。
諸宗教の望みは、人間から 肉体を取り去ること、人間を 肉体のない魂とすることだ。

すべてが ひどく罪悪視されてきた。

そして 人々は、それを 鵜呑みにしてきた。
教典を 見てごらん。
いろいろな教典の中に、体を罪悪視する記述がある。
いわく、
「お前の体は、ほかでもない、血と脂肪と粘液だ」と。
いったい こういう教典を書いた人間たちは、何を望んでいたのか。
金(きん)だったらいいのか。 銀か。
何だ。 ダイヤモンドか。

なぜ 血がいけないのか。
なぜ血が 非難されるのか。
血こそ 生命だ。
でも彼らは 血を悪いものとする。

そして人々は、それを受け入れる。
こうした人々は まったく狂っている。


ジャイナ教徒たちは いつも言う。
自分たちの ティルタンカーラは、決して小便も大便もしない。
そんな悪いことはしないーーー。


なぜ小便が 悪いのか。
小便の代わりに 何をするというのか。
小便の どこが悪いのか。
でもそれは、まったく悪いものだ。

心理学者によれば、男の場合、生殖器と泌尿器が同じせいで、セックスが罪悪視される。
また 女の場合、生殖器は 真ん中にあるーーー 一方には排便、もう一方には排尿がある、そんな悪いものの間にあるものが、善いわけがない。

セックスの罪悪視は、排泄の罪悪視に 由来している。
しかし なぜか。 なぜ 罪悪視するのか。
何が 悪いのか。
ところが 私たちは、それを 受け入れる。
そして 受け入れれば、問題が起こる。


人間の体 全体が、ノイローゼ的な人々によって 貶められている。
たとえそれが 教典の著者だったとしても、ノイローゼには変わりない。

あるいは、権力者だったかもしれない。

ノイローゼの人間は、だいたい いつも偉大な権力者だ。
ノイローゼ的な人間は狂信的だから、すぐに追従者が集まる。

狂信を崇拝する人々は、どこにでもいる。

断固たる調子で しゃべる人間がいると、人々は その足下に平伏し、「彼こそ指導者だ」と言う。
でも彼は ただのノイローゼかもしれない。
ただの狂人かもしれない。

こうした ノイローゼ的な人間が 人々を罪悪視し、人々は それを受け入れる。

人々は、そうした人間たちによって 条件づけられてきた。



真の無意識が 自分の中に流れ込むと、微妙な幸福感が現れるーーー心地よさが感じられる。

すべてが良い。 すべてが神々しい。
自分の体は〈神〉に由来している。
自分の 血も、自分の 小便もだ。
すべてが 神々しい。

無意識が 流れ込めば、すべてが神々しい。
すべてが 神聖になる。
何も 悪くない。 何も 罪悪視されない。

このような感覚が現れたら、あなたは 飛ぶ。
歩いてなど いられない。
そのくらい 軽くなる。
もはや 頭上に 重荷はない。

そして、小さな物事を 大きなやり方で 楽しむことができる。
些細なもの すべてが、それぞれに 美となる。
その美は 自分に由来するものだ。

自分の触れるもの すべてが金になる。
なぜなら、奥深くで 自分が 至福に満ちているからだ。


これが あなたに起こる 第一番目だ。
つまり、自分自身への 好感情。


二番目。
無意識が 意識の中に流れ込むと起こる 二番目のこと。

外側の世界への依存が減り、観念的な姿勢が減り、あなたは もっと全面的(トータル)になる。


そうなると、幸福なときは、たんに口で「私は幸福だ」と 言うのみならず、あなたは 踊りだす。

「私は幸福だ」と 口で言うだけでは、力に欠ける。
人々は口で「私は幸福だ」と言うが、その顔を見てごらん。

また、人々は「あなたを愛しています」と言うが、その体は 何も表現していない。
言葉は 死んだものだ。

ところが私たちは、それを 生の代用としている。


無意識が 自分の中に流れ込んできたら、あなたは自分の 存在全体で生きる。
それが 相違点だ。
あなたは 幸福を感じ、踊りだす。
もはや「私は幸福だ」と 口で言うだけではない。
あなたは 実際に 幸福だ。

そこが違うところだ。
もはや「私は幸福だ」とは 言わないだろう。
そう言う 必要がない。
なぜなら 実際に幸福だからだ。

また 誰かに
「あなたを愛しています」と 言う必要もない。
あなたは 愛だ。
自分の 全存在が その感覚を現す。

そして、あなたは 愛とともに波うつ。
そばを通る人はみな、あなたが 愛していることを感じる。

あなたが 手で触れると、相手の中に 微妙なエネルギーが入ってくる。
それは、あなたの 存在の温かさであり、幸福だ。


これが二番目だ。

一番目は、自分自身および すべてに対する好感情であり、そして二番目は、自分が 全面的になることだ。

導き手に ゆだねれば、あなたは全面的になる。


ーーーーーー第三の質問

9️⃣へ 続く