saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(03)


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(03)

 

(ただ、あなたに 中心がないからだ。

あなたは ただ周辺にいて、その周辺に 同化している )

周辺は あらゆる物事 −−− 起こる 全てのことに、心動かされる。

それは、あなたの 境界での出来事だ。

だから 何が起ころうと、その周辺に触れることになる。

そして、あなたには 何の中心もない。

あなたが 中心を持てば、自分自身から距離をとれる。

あなたは 自分の周辺から距離をとる。

誰かが その周辺を 罵ることはできる。

だが、それは あなた ではない。

あなたは 傍観者のままで、そこから 離れている。

あなたと あなた自身の間には、距離がある。

周辺としての あなたと、中心としての あなたの間には 距離がある。

その距離は、誰か 他の人に壊されることはない −−− 

誰ひとり、あなたの中心にまでは 入り込めないからだ。

外側の世界は、周辺でしか あなたに触れられない。

 

だからブッダは こう言った。

「今や私は センタリングされている。

十年前なら違っただろう。 その時、もしあなた方が 私を罵ったなら、私は 反応していただろう −−− だが、 今や私は 行為する」

 

行為と反応の区別を、はっきりと 理解しなさい。

 

あなたが誰かを 愛するのは

その誰かが あなたを 愛するからだ。

 

ブッダも また、あなた方を 愛する。

だが、それは あなたが彼を愛するからではない。

それは 関係ない。

あなたが 彼を愛そうが 憎もうが、それは関係ない。

 

彼が あなたを愛するのは 

それが 反応ではなく 行為だからだ。

行為は あなたから やって来るものであり 

反応は あなたに 仕方なくやって来るものだ。

そして センタリングとは 

今や あなたが行為し始めた ということだ。

 

もう一つのポイントを、心に留めておかねばならない。

あなたが 行為するとき、その行為は いつも全一だ。

 

あなたが 反応するとき、それは決して 全一ではあり得ない。

それは いつも部分的で 断片的だ。

周辺から行為するとき −−− それは 私が反応する時 ということだからだ −−− それは全一ではあり得ない。

なぜなら、私 というものが その中に 実際には深く関わっていないからだ。

ただ、私の 周辺だけが関わっているので 

その行為は 全一では あり得ない。

 

もし あなたが 周辺から愛するとすれば 

あなたの愛は 決して 全一ではあり得ない −−− それは 常に 部分的だ。

 

 

(03)終わり(04)へ 続く