saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(06)

(06)

( 何であれ、あなたが すること −−− 

あなたの 愛、セックス、友情 −−− 全てが完結していない )

 

そして、もしあなたが 周辺に留まるなら 

それらの行為を 全一なものには できない。

 

それでは、 どうやって 自分自身の内に センタリングするか ? 

周辺でないようにするために、どうやって このセンタリングを 成し遂げるか ? 

 

観ることが その技法だ。

この「観る」という言葉は、最も重要な言葉だ。

 

センタリングを 達成するのに、何百という技法があるが、観る ということは すべての技法の一部分、根本的な部分になって然りだ。

それが どんな技法であれ、観るということは 

必然的に その中の本質部分で あるはずだ。

 

だからそれは「技法のなかの技法」と 言ったほうがいい。

それは、ただ単に 技法というだけではない。

 

目撃のプロセスが、あらゆる技法の 核心部分だ。

人は、観ることを 一つの純粋な技法としても 語ることができる。

 

たとえば クリシュナムルティの場合だ。

彼は 観ることを、純粋な技法として語っている。

だが それはちょうど、外郭を持たない魂について 語っているようなものだ。

あなたは それを 感じられない。

見ることができない。

あらゆるところに 魂は宿っている。

だが、あなたは外郭を通して、その魂を 感じられる。

もちろん、魂というのは 外郭ではない。

が、あなたは外郭を通して それを感じられる。

 

あらゆる技法は、ちょうど 肉体のようなものだ。

そして 観ることが 魂だ。

あなたは 観ることを、肉体や物質と切り離して話すことができる。

すると、それは抽象的な 

まったく 訳のわからないものになってしまう。

だから、クリシュナムルティは 半世紀もの間、絶えず 観ることについて語り続けた。

が、彼の言うことは何であれ、あまりにも純粋で 

外郭を持たない話だ。

その話を聞いた人が 理解したとしても、その理解は ただの観念に留まる。

この世界では、何一つとして 純粋な真髄として存在していない。

すべてが 外郭を持っている。

 

観ることは、あらゆる霊性開発の 技法の真髄だ。

そして全ての技法が 外郭、異なる外郭だ。

そこでまず始めに、目撃するとは 一体どういうことなのかを 理解することだ。

そのあとに、ある外郭、ある技法を通して 

「観ること」が 理解できる。

 

我々は、考える ということを知っている。

そして人は、「観る」とは どういうことかを知るために、考えることから 始める必要がある。

人は、自分が知っていることから 始めるしかないからだ。

 

我々は 考えることを 知っている。

考えるとは、判断することだ。

あなたは 何かを見て 判断する。

ある花を見て、きれいだとか、きれいではない と言う。

あなたは 歌を聴き、評価したり しなかったりする。

あなたは 何かを評価し、何かを 批判する。

 

考えるとは、判断することだ。

あなたが 考えるとき、あなたは判断し始める。

考えるとは 価値を 付けることだ。

価値を付けずに 考えることはできない。

ある花に対して、価値を付けずに、どうやって 考えられるだろう ? 

 

あなたが 考え始めた瞬間、それはきれいだとか きれいではない、とか言っている。

あなたは 同じカテゴリーを 使うしかない。

考えるとは、区別することだからだ。

あなたが あることを区分し、ラベルを張り、名前を付けた 瞬間 −−− あなたは それについて 考えたことになる。

 

もしあなたが 判断しなければ 

考える ということは あり得ない。

もし 判断しないなら、ただ気づきを 保ったままでいられる −−− が、 考えることは できない。

 

 

(06)終わり(07)へ 続く