saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第16章「意志か、 明け渡しか」最初の質問(01)


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最初の質問(01)

質問・・・

 OSHO、昨夜 あなたは、マインドには二つのことを同時にはできないとおっしゃいました −−− それは考えることと、目撃することです。 とすると、目撃することは精神の能力であり、マインドの行為であると思えるのですが、そうでしょうか ? 

 それと、何か部分的な目撃と全面的な目撃があるのでしょうか ?  どうか説明していただけますか ? 

 

 

 目撃することは 精神活動ではない。

考えることは 精神活動だ。

考えることは、マインドだと 言った方がいいだろう。

マインドが ない時、マインドが 不在である時、マインドが 消え去っている時、初めてあなたは 目撃できる。

それは マインドの背後にある何かだ。

 

禅宗では、二つのやり方で マインドを使う。

普通のマインドは、考えるという意味だ。

そして 大文字の Mが 考えることの背後にある マインドを意味する。

 

意識は、マインドの 背後にある。

そして、意識は マインドを通して やって来る。

もしマインドが 考えるという状態にあれば、意識は 不透明で、透き通っていない、ちょうど曇り空のようになる −−− あなたは空を 見ることができない。

雲が ないと 空が見える。

考えることが ない時、あなたは 目撃する ということを 感じられる。

それは 雲の背後に広がる 純粋な空だ。

 

二つのことを 同時にできないとは、考えるか 目撃するか、どちらかしかできない という意味だ。

もし考えていれば、目撃することを 失っている。

すると、マインドは あなたの 意識の上の雲になる。

もし 目撃しているとすれば 同時に 考えることはできない。

マインドは そこにない。

 

考えるには、過程(プロセス)が 必要だ。

目撃することは、あなたの 本性だ。

 

だから私は「あなたは両方 同時にはできない。

マインドには 両方同時にすることはできない」と言う。

マインドには 目撃する能力がある、と 言っているのではない。

マインドには 考える能力が ある。

マインドは

「精神を働かすこと(マインディング)」のためにある。

実際、多くの問題は、ただ言葉によって 作り出される。

そこに マインドは 存在しない。

プロセスだけがあり、マインドという一つのものが あるわけではない。

だから マインドと言うより、マインディングと言った方がいい。

それは 常なる思考の プロセスだ。

 

一つの思考の後に、別の思考が 続いていく。

その隙間に だけ、二つの思考の 間にだけ 

あなたは 目撃の質の 何かを 持てる。

だが、思考は あまりにも素早いので あなたは その隙間を 感じられない。

 

もし 自分の思考を 目撃し始めると、思考の流れは 速度を落とすので、あなたは その隙間を 感じ始める。

一つの思考が 通り過ぎ、別の思考は まだやって来ない。

そこに 隙間が生じる。

その隙間のなかで、あなたは 目撃することができる。

そして 思考は、隙間なしでは存在できない。

さもなければ、それらは 重なり合い始めるだろう。

思考は 存在しない ! 

それは ちょうど、指と指との間に 隙間があって存在しているようなものだ。

 

もし 思考の流れが 速度を落とせば −−− どんな瞑想の技法も 思考の速度を落とすため 以外の、 何ものでもない −−− 

もし 思考の流れが 速度を落とせば 

あなたは その隙間を 感じ始める。

それらの 隙間を通して、目撃が 起こる。

 

思考というのは マインドだ。

そして、思考のない意識が 目撃することだ。

 

思考は 外から身につけるものであり、目撃は 内にある。

 

意識は、あなたと ともに誕生している。

思考は 身につけたもの、人為的なものだ。

 

 

(01)終わり(02)へ 続く